おはようございます。今日は再び琵琶湖を目指します。
行きは西岸、帰りは東岸です。
その前に、気比神宮元宮との説がある常宮神社へ。
案内板には気比神宮の境外摂社とあるだけで、元宮とは書かれていません。
常の宮は梅の花の種類の多さで知られているそうです。
実は、ここ敦賀の港は江戸時代の藍川家にとって因縁のある場所なんです。
それで海を見に来た…次第です。
社殿から離れ…と言うか、お尻を向けて、海辺で海人族の歌をうたいました。
やはり波を見ながらの演奏は最高です。大満足。
先ずは琵琶湖に面した塩津神社。ですが、期待していた眺望がありません。
「由緒」を見て、社殿を見て…
やっぱり興味がわきません。ふと左手を見ると、石段が!?
こういう時の私って、絶対に躊躇しませんよね…。
L字型に右折すると階段の先に祠がありましたが、その左奥にも祠が見えました。
いずれにせよ人工的建造物には興味がありません。
琵琶湖を見に来たのに、階段を上がっても眺望はありませんでした。
『延喜式神名帳』の読みが「オタノ」なのに、現在「オフト・オブト」と呼ばれている
としたら、論社は別にあるのかもしれません。
ちなみに多太神社の読みは「オホタノ」で「フト」とは読みません。
賤ヶ岳南麓にまわりこむと白山神社の祠がありました。
さらに東へ進むと、大日如来堂がありました。
意太神社へは大日如来堂横の道をあがると書かれていたので探していました。
裏へまわって少し登ってみました。
この奥だと思うのですが、動物避けの柵などあり、登る気になれません。
行ってみたとしても、あるのは慶長年間と明治に再建された小祠のみ。
意太神社は天正年間に賤ヶ岳の兵火で焼失したそうです。
境内案内板のみ記しておきます。
意太神社(祭神・火の迦具土神)
徳を受けられ崇拝されていた神様です。
「火の迦具土神」とは、火の神であると同時に
火がなくては成り立たない金属精錬や陶器に製造に最も重要な神様です。
この後方の山は香具山と言い鉄岩石を産し、また木之本町土倉村には銅鉱もあり
また、余呉町丹生村では良質の粘土も産出し現在でも茶碗祭りが
無形文化財として残っています。
古代豪族伊香氏は姉川以北を支配しており
製鉄に力を入れ、鏡・武具・農具の生産にはげみ伊香の小江を開拓し
湖北の神聖なる香具山の麓に小京都として大音の村を築きました。
その村名も意太からやがて大音になったと思います。
意太神社は空振りでしたが、位置関係はわかりました。
すぐ東隣の伊香具神社へ向かいましょう。
さすが名神大社だけあって立派ですねぇ…。ここで悪い癖が出てしまいました。
三ツ鳥居と社殿にあてられて足を運ぶ気が失せました。
上下の2枚はタクシーの窓を開けて撮ったものです。
ちょっと古墳ぽくもあったのに…、また再訪すべき場所が増えました。
さらに東進し、木ノ本駅を通り過ぎて意富布良(オフフラノ)神社へ。
「由緒」もありました。ルビは「オホフラ」となっています。
百万歩(?!)譲って、神が存在するとして(本来、人が作り名づけたものながら)、
神はお賽銭を遣ったり御神酒を飲んだりできるんでしょうか?
誰のためのお金、お酒、社殿なんですか?
という疑問を抱えている私。それゆえ神社へゆくのがしんどい…。
ということで、またしても素通りさせていただきました。
大海人皇子が陣を構えたとの伝承があります。
もとは犬上川に面していたはずなのに、現在は197号線によって遮られ、
鳥居も移動させられたかと思われるほど窮屈な印象を受けました。
失われた地形を見ることはかなわないため、ここと多賀大社を結ぶ線上にある
高宮神社へ移動しました。
これはまた立派な参道ですこと!? 式内社よりずっと規模が大きいんですね。
右手に宮司さんのお住まいがあったので演奏許可を得ました。
社伝によれば、当社の創建は鎌倉末期、日吉社領ゆえ祭神は日吉大比叡神、
古くは十禅師宮又は山王権現と称していたけれど
明治5年に村名をとって高宮神社と改称したそうです。
途中に特徴的な木がありました。
こちらは「女飯盛木」。少し先にあるのが「男飯盛木」です。
胡宮神社とは明治19年に県社となった際に改称された社名で、
多賀大社とは浅からぬ関係にあったようですね…。
当社の奥宮たる磐座が多賀大社の奥之院と呼ばれた時代もあったらしい…。
これは、やはり、磐座までゆかないと話にならないでしょうか?
そう考えて歩き出したものの、運転手さんに30分ほど待って頂けるよう
伝えるため、駐車場へ戻りました。
すると運転手さんが「多賀大社の元宮へ行きませんか?」と仰います。
「ここが元宮の可能性はないのですか?」と訊ねると
「ありませんね」と断言されました。ビックリです。
取り敢えず、通り道なので、ささっと多賀大社を見てきます。
「大社」と名乗るだけのことはありますね。それでも「近江国三宮」です。
『延喜式神名帳』には多何(タカノ)神社 二座とありました。
一応、社殿があるんですね…。意外でした。
多賀の大神が杉坂山に降臨し、ここ栗栖の里でしばし休んだのち
多賀の宮に遷ったことで当社が多賀大社の元宮と言われているわけですね。
高さ約3mの巨大な磐を依り代(憑代)に見立てたということ?
人工的建造物ではなく自然の造形の中に高次元の神霊が宿るとの
考えを古代人がもっていたということでしょうか?
思いもかけず、午前中に気比神宮の元宮とされる常の宮へ行き、
午後には多賀大社の元宮とされる調宮(トトノミヤ)へ来られました!