昨夜フェリーで佐賀関~佐田岬の三崎港へ移動。
そして 8:59発の特急「宇和海」に乗りました。物凄く揺れます。
MapFanでホテルから14分と出た湯島(ゆとう)天神社経由で駅へ行こうと
計算して 8:25にホテルを出たのに「朝は道が混むから」と
運転手さんに拒否され、8:30より前に駅へ着いてしまいました。
(駅へ続く道はガラガラでしたが?)
他の運転手さんに頼んでも「無理だねえ」と断られ、もっとずっと駅に近い
八幡浜大神宮に行きたいと言っても「嫌だ」と拒否されました。
いったいどういう方たちなんでしょう? と、退屈しのぎに話すことに。
ほかにお客さんもいないので、運転手さんたちが車から下りてきて
あっという間に円陣が組まれました!?
そんなに暇なら神社まで乗せて行ってよと思いましたが、
結論としては、ハッキリそうとは仰いませんが、「大したことない」と
感じておられ、「行ってもガッカリするだけ」ということだったようです。
昨夜の運転手さんから訊かれたことを質問してみました。
伊方原発を動かすべきかどうか。
私が「香川県では結構こわがってる人が多いようですけど?」と言うと
運転手さんたちは口々に「原発を早く動かして欲しい」と仰います。
「経済効果があるんだから他所の人間に反対運動なんかされたくない」とのこと。
たまたまですが、小浜で反対運動をしている運転手さんの車に乗ったことがあり、
地域ごと、個人ごとに考えが違い、温度差があるものだと感じました。
すでに宇和島行きのフェリーはなくなっていて昨夜のうちには着けず、
特急の本数が少なくて宇和島市伊吹の伊吹八幡にすら立ち寄れません。
目指すは蔵王大権現のみ。
最初は宇和島からタクシーで高知へと山越えしたく思いましたが、
今はまだ調べものが山積しているため断念…。
明治3年に金峰(かなみね)神社に改称したという蔵王大権現へ行くのも一苦労。
ここへの道が狭すぎて運転手さんに拒否されるも、
あと少しだけ直進してくださいと頼んで、左手に鳥居を発見!!
扁額に「金峰社」とあります。
この位置からは見えませんでしたが、階段右手に御神木がありました。
石垣の中から木が出てきてるということは後から石垣を組んだ?
この御神木から見て「中世には蔵王大権現」との伝承は嘘ではないかも?
むしろ石垣やこの社殿が後から建てられ、
背後の山が蔵王権現の修験場だったと考えるのが自然ではないでしょうか?
いつもながら社殿には社名もなければ由緒書もない。
また宿題が増えました。
宇和島駅からの特急はだいたい1時間に1本。
ところが、宇和島駅を出てすぐ「落石があったため確認します」との
アナウンスで停車し、早くも遅れが出ています…。
まだ松山まで1時間もありますが?!
運よく遅れを取り戻してくれたので
前回は特急の発車時刻が迫っていたとはいえ、同じ社地にある神社へ
行ってなかった!? と気づき、けっこう落ち込みました。劣化してますね…。
着きました。これが「風早国造」の名を冠した神社、風早大神宮!?
ちょっと…というか、かなり期待外れでした。
…で、取り敢えず5月4日に行った国津比古命神社へ。
階段を登ると立派な社殿。
前回この階段から向かい側の社殿を撮っていました。
帰宅後に境内図を確認したら、左奥の階段の上に見えているのは
17世紀に遷座させられた櫛玉比賣命神社ではなく、
(龍馬の坂本家ゆかりの)和霊神社でした。
そこで今回はちゃんと上ってみることに。
そこで本日撮った和霊神社奥に鎮座している櫛玉比賣命神社の画像。
櫛玉比賣命神社からも国津比古命神社を撮ってみました。
この両社を創建したのは国造となった物部阿佐利だそうです。
ならば、神社は祖神を祀るゆえ、祭神は櫛玉ニギハヤヒとその妻で納得。
まだちゃんと調べられていませんが、
伊予の国には「小市国造」と「風速国造」が居たらしい…。
天孫本紀の物部系譜によれば、小市直(をちのあたひ)の祖は物部連と同祖の
大新川命の子 物部大小市連(おほをちのむらじ)とされているそうです。
そして初代国造 小致命は越智氏の祖にあたり、国造を小市氏が世襲したとか。
「をち」氏は「小千」「乎千」とも表記されるようです。
風速国造は物部連の祖 伊香色男命の四世の孫にあたる物部阿佐利命がつとめ、
風早氏・物部氏の氏神として国津比古命神社を創建したことになっています。