藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

中央構造線の旅 2

箸蔵駅12:37発に乗り、阿波川島駅に13:48着。
近くにタクシー会社がないため、5/12にお世話になった徳島駅担当の運転手さんに
「また4時間お願いできますか?」と電話で頼んでおきました。
 
先ずは伊加賀志神社
階段…!? 暑くてちょっとキツかったのですが、登ると奥行きのある台地でした。
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祭神は伊加賀色許雄命と伊加賀色許賣命の兄妹と天照大御神、事代主大神。
伊加賀色許賣命は第九代開化天皇の皇后(元は第八代孝元天皇の妃)だったそうです。
シコメ」と「シコヲ」だ!!
伊加賀色許賣命=伊香色謎命が(表記の違いはよくあることですが、それより)
もとは先代の孝元天皇の妃であったことが気になります。
それだけ朝廷が資源の宝庫たる吉野川を含む粟ノ国・長ノ国を治めていた
物部氏系の勢力を重視していたということでしょうか?
 
また、開化天皇と伊香色謎命の皇子 御間城入彦五十瓊殖尊は第十代崇神天皇
なっていますが、もう一人『古事記』にのみ記載されている皇女が居り、
その名も「御真津比賣(みまつひめ)命」。
長ノ国の祖神「御間都比古(みまつひこ)命」と一対の名前なのがひっかかります。
ヒメヒル」と「ヒコヒル」?
 
現社名伊加加志神社(扁額は伊加賀志神社)は明治3年に改称または復称されたもので
それ以前は「日命(ひのみこと)大明神」と称していたそうです。
太陽信仰なら、大麻比古神社朝立彦神社と同じ「アサヒコヒル」?
いや、ずばり「ニギハヤヒ」でしょうか。
 
ここから少し北の吉野川沿いが旧社地で、流されて丘の上に遷座したらしく、
吉野川のすぐ南に「伊賀々志」の地名が残っていました。
 
伊加賀志神社の真北に建布都神社および建布都古墳があるため吉野川を越えます。
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一目で古墳だとわかりますね。
石上神宮(石上坐布留御魂神社)と同じ祭神なので、やはり物部氏の勢力圏でしょう。
延喜2年(902)の「田上郷戸籍残簡」によれば、
全478戸のうち、凡直(おほしのあたひ)72戸、家部(やかべ)59戸に次いで物部氏が51戸。
吉野川北辺に物部氏が住み、建布都神社建布都古墳をつくったのでしょう。
 
冒頭の(第八代孝元天皇の妃にして第九代開化天皇の皇后、第十代崇神天皇の母でもある)
伊加賀色許賣命は父 大綜杵命(おほへそきのみこと)饒速日尊の子孫で物部氏の先祖、
母 高屋阿波良姫が凡直なら、物部氏と粟氏の子孫ということになります。
いずれも有力氏族なればこそ、父の大綜杵命は開化天皇の御代に大臣を務め、
兄の伊加賀色許雄命は開化天皇および崇神天皇の御代に大臣を務めたのでしょう。
 
古墳の上では紋白蝶、黄蝶、アゲハ蝶などが乱舞していました!
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とても気持ちの良い空間に後ろ髪をひかれつつ東の「伊月」を目指します。
「イツキ」とは「斎」の意味だそうです。
そこに斎まつられた神は事代主、そのものズバリ事代主神です。
徳島県阿波国ができる以前は粟ノ国と長ノ国でした。
長族について『新撰姓氏録』にこうあります。
長公―――大奈牟智神 兒、積羽八重事代主命之後也―――和泉國神別
 
摂津国長田神社の祭神も事代主で、同じ長族とされています。
しかし阿波国事代主神の空疎感はどうでしょう。
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この歌からは↓怨念のようなものが感じられますが…?
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この碑を見て、にわかに、ここは粟凡直の直轄地では?
との疑いが湧いてきました。判断材料は「粟ノ国」のブログに集めました。
 
新編姓氏家系辞書などに「粟国造・粟凡直は粟忌部の宗家」と書かれているのは
何かの陰謀か圧力? 歴史は知らぬ間にどんどん上書きされてゆく…。
 
もう一社、建布都神社の論社へ行ってみました。
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こちらは西宮神社と合祀され、社殿も新しくなっています。
西宮神社ヱビス=事代主という付会ですよね?
しかし裏へまわるとコレ!?
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さて次は中央構造線上にある徳島県内最大の旧石器散布地椎ケ丸古墳です。
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香川県のカンカン石として知られるサヌカイト製のナイフ型石器(約70点)の他、
1,000点以上の石器が現在までに出土しているそうです。
そして、隣接する神社の祭神は何と私の故郷 宇多津から勧請?
カンカン石だけでなく吹越大明神までとは御縁を感じますが、吹越神社
土御門上皇を祭神とする御所神社と合祀されて御所神社となりました。
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私は椎ケ丸古墳側から同じ高さの御所神社へ行きましたが、参道は急勾配!?
標高約90mの段丘にあると書かれていました。
 
この御所神社から讃岐へ抜ける道を北上して同名の御所神社まで行きました。
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土御門上皇終焉の地」と明記されていますが、確たる根拠は無いそうです。
むしろ、屋島から逃れて祖谷へ向かった安徳天皇ゆかりの地
とする説が江戸時代後期の文献『燈下録』にあって有力視されています。
 
 板野郡宮河内村御所山越といふ道あり、此の幽谷に奥の御所、口の御所といふ行宮の跡(御所大明神の社)あり。
 元暦二年の春 平家都を落とさせ讃岐國八島の浦に仮に内裏を建てられしかども軍兵のみ防ぎたたかひ、天皇は此の山中に御所を建て潜行ならせ給ふ、口の御所は猶ほとちかしとて奥の御所に御座ありけるが、すでに八島の軍やぶれしと聞しめし、猶又麻植郡 木屋平山に巡狩し給ひ、つひに美馬郡祖谷山に皇居ましましてかの地に岩隱れ給ひぬとなん。
 平家物語、盛衰記等には長門國壇浦にて入水せさせ給ひぬと見えたれど そは表の説なり、実は門脇中納言 敎盛卿等供奉し給ひしにこそ、今の祖谷 阿佐の名主即正しき彼の卿の苗裔なり、その外さるべき殿上人等をば陪從ひおはせしとぞ、此の他名主等に平家の遠孫など多けれ。
 
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道路から急な坂道を下ってゆくと、川の向こうに御所神社が鎮まっていました。
 
徳島県は奥が深いですね…。