突然ですが、雨なのでバイクで出掛けることにしました。
雨だと熱中症の心配もないし、日焼け止め対策も必要ないため。
このところの暑さには閉口…、梅雨明けまであと僅か…
ということで少しでも課題を消化しておきたく思います。
今日は、関東というか板東に「一言主神社」があるのはなぜか?
このキーワードが引っかかっていたのに長いあいだ放置していました。
●大同4年(809)創建 ●三岐(ミツマタ)の竹
「一言主大神」が自ら語ったとされる次の言葉も引っかかります。
われは大和国葛城山(ヤマトノクニ カツラギサン)の東 高宮の岡(タカミヤノヲカ)にいる
一言主大神(ヒトコトヌシノオホカミ)なり、
今この国の人々を災いから救うためにここに来た。
すなわちこの“三岐の竹”を私と思って末永くおまつりしなさい。
「葛城」とは、神武軍が葛で編んだ網で土蜘蛛を捕縛したことを暗示する地名。
よもや土蜘蛛として誅された「一言主大神」に東国の土蜘蛛を監視させようと
考えたわけではありませんよね?
あるいは「真金(まかね)吹く吉備」の場合と同様、征服者が先住民の
朝廷の勢力が東北にまで達した時点での拠点づくりは着々と進んでいました。
その流れでの「●大同4年(809)創建」です。
広大な敷地をもつ神社で、大きな駐車場が3ヶ所以上あるようです。
何度か声をかけたのですけれど、16時終了とのことで17時には無人でした。
突然行ったため神職の方にお話を伺えず空振りに終わってしまいましたが、
この程度でメゲル私ではありません。実はもう一つの目的が…!?
最初はトンデモと笑っていましたが、こういう話は真実かどうかより
どこが人々にウケたかを探る方がおもしろい。
どちらも大変な人気者であることは間違いありませんし。
その名も國王神社。朝廷(朱雀天皇)に対して「新皇」を自称していましたので。
境内には「宮内遺跡」の碑もありました!!
銅製品、鉄製品などが出土したそうです。
中でも奈良・平安時代の住居跡から多量の製鉄滓が出土していることから
製鉄技術をもった人々が居住していたとの見解が示されています。
社殿の横から入ってしまったので参道正面まで行ってみました。
「國王神社縁起」及び「元享釈書」によれば、当社の創建は将門最後の合戦の折、
奥州の恵日寺(ゑにちじ)に逃れて出家した三女(如蔵尼)が、将門没後33年目となる
天禄3年(972)に76cmの木像を刻んで庵を結んだ時に溯るとされています。
瀧夜叉姫の本名は五月姫。
父の無念をはらそうと、丑の年の丑の月の丑の日に降臨した貴船明神の社で
「丑の刻参り」を行ない、21日後の満願の日、妖術を授けられたといいます。
歌川国芳は1845年頃に瀧夜叉姫が呼び出した巨大な骸骨の妖怪を描いた衝撃作
「相馬の古内裏」を発表しました(↓フリー画像を借用しています)。
『吾妻花相馬内裡』(1764)という顔見世狂言の筋立ては、
その怨念が良門に与して復讐するというものです。
第50代 桓武天皇(737-806)
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葛原親王の子 高見王(?)
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平高望の子 良将
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平良将の子 将門(?-940)
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安倍晴明(921 ?-1005)
安倍晴明の生誕地には幾つかの候補がありました。
高橋家には宝永8年(1711)頃にまとめられた「晴明伝記」が私蔵されています。
高橋氏とは…!?
安倍氏と同じく「大彦」を始祖とし、その子「彦背大稲興」に始まるとされる
膳氏はのちに若桜部を経て高橋氏となり、歴史からその名を消します。
この安倍氏と高橋氏の関係によって、私は
安倍家へ養子に出したとする説に抵抗がないのです。
また、晴明の母が信太のキツネだったとする伝説も常陸国なら成立します。
「信太妻・信田妻」または「葛の葉狐」のあらすじを簡単にまとめると、
助けると葛の葉という女性が現れて、いつしか恋仲となった二人の間に
母(葛の葉狐)は信太の森へ帰ってゆく…というもの。
桓武平氏将門流・信田氏の本拠地でした。
上記の逸話や伝説に繋がりがあるのか無いのか、まだ想像もつきませんが。
まだ阿彌神社へは行けていないので楯縫神社の画像のみアップしておきます。
実際には楯縫神社と阿彌神社は2社ずつありました。