藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

西都原~宮崎空港

西都市に入って二社目の石貫神社です。
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ん? 大山祇陵? 400m先を目指したら、そこは「西都原古墳群」でした!?
「ISHINUKI KAIDAN」というローマ字表記がひっかかりまして、
まるでもともと当社は大山祇陵の階段への参道だったのに大山祇陵だけが
国の「特別史跡公園」に組み込まれてしまった?とでも言いたげな
一種の無念さを感じたので行ってみることにしました。
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これが大山祇陵ですか…(百済神・三島神と同神ってこと?)
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階段は169段でした。視線の先が石貫神社の境内になります。
先祖を神として祀ったのが日本の神道のはじまりだとしたら
この御陵と神社を切り離されては話になりませんよね…。
そこが石貫神社で感じた空疎な雰囲気の原因かも? と勝手に想像しました。
 
「西都原古墳群」は以前、宮崎のK先生に案内して頂いたので
すぐ近くの日向国二ノ宮とも言われる都萬(つま)神社へと向かいます。
こんなに有名な神社をも素通りしたなんて、ホントに興味がなかったんですねぇ。
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都萬神社といえば何と言っても樹齢1200年を超える「妻のクス」!!
1967年と1990年の二度、幹の内部が焼け、1993年の台風で幹が半分倒壊した
にも拘わらず、枯れることなく生命を紡いでいます。人もまた満身創痍ですが…。
 
さて、前の記事で「児湯郡」と「西都市」の記事を分けると書きましたが、
西都市の市制施行は1958年11月1日で、妻町の誕生は1924年、それまでは
児湯郡下穂北町(村)でした。石貫神社の道標にも「児湯の池」とありますし。
 
続日本後紀』承和4年(837)8月壬辰朔条にある
日向国子湯郡子都濃神。神。宮埼郡江田神。諸県郡霧島岑神。並預官社。」
を日向一ノ宮たる都農神とその妻がセットで官社に列せられたと読んでしまう私。
現在は祭神の木花開耶姫命瓊々杵尊の妻だから「つま神社」とのことです。
 
日本の神社においては社名や祭神が変わっていないことの方が珍しいので、
私は極めて単純に、祭神が男性ならその地を治めていた国主(くにぬし)
女性なら各地の国主の妻という風にとらえるようにしています。
二転三転している社名や祭神に踊らされることには意味を見い出せません。
 
なお西都市には木花開耶姫命瓊々杵尊が新婚生活を送った伝承地もあるそうです。
 
こののち調殿(つきどの)神社三宅神社とまわってから、西都市最後の
岩爪神社へ行きました。826年11月に空海が創建したと言われています。
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かつて境内社や寺があったことを想像させる広さでしたが、空海が創建したとの
根拠を示すものは見当たりませんでした。ただ由緒書の看板があっただけ…。
 
そろそろ空港へ向かわなくてはならない時刻に差し掛かっていたので、
残り3社を2社に削ってギリギリまでまわることに。
宮崎市に入り、先ずは上北方町にある磐戸神社。「吾平山岩窟」と呼ばれ、
「天然の岩窟なり、窟口の広さ1丈余、深さ15間、その中に鎮座す」とあります。
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このあたりに多いという横穴式古墳の入口を蔽う形で拝殿が建てられています。
向こう側に見える階段の先は県道9号線です。
私は正反対にある真後ろの長い階段を、道路脇の鳥居をくぐって登ってきました。
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この古墳の向こう側に↑の拝殿があります。
 
「吾平山岩窟」から同じく根拠の示されていない「瓊々杵尊の御陵」へ行きました。
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宮崎市南方町にある奈古神社、奥に前方後円墳があります。
景行天皇の皇太子でヤマトタケルの異母兄弟だった成務天皇の御代に
武内宿祢が磐余彦命と葺不合命を祀ったというのが神社の縁起だそうです。
長屋神社とも奈古八幡宮とも称した後、明治に奈古神社と改称されました。
 
もうこれが幾つ目の「ニニギの御陵」なのかわかりません。
結局「ニニギ」でも「フキアヘズ」でも構わないんじゃないの?
という気分になっていますが、取り敢えず疑問を解消すべく旅を続けます。