藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

美濃国

おはようございます。のぞみに乗ってます。
さまざまなタブーには出来るだけ触れたくないと思っていますが、
そうなると自分自身のルーツを語ることすら難しくなります。
日本とは、単一民族なんて嘘を意図的に浸透させようとしてきた国なので…。
 
今日は、藍川家父祖の地たる美濃国へ向かっています。
大宝律令の「藍川郷」は、かつて国府が置かれた 垂井町付近にありました。
今も「藍川郷」にあった伊富岐神社が鎮座しています。
初めて伊福部昭先生のお宅へ伺った折、この件を訊かれました。
 1982年当時、701年に制定された大宝律令に記載された「藍川郷」について
ふつうに語れる国って、ちょっとスゴイですよね?
 
そんな氏族の痕跡を消し、史蹟古伝を亡ぼすことにつながりかねないとして
南方熊楠(1867-1941)が猛烈な反対運動を繰り広げたのが
明治39年に発布された一村一社の「神社合祀令」でした。
 
背景に明治38年8月に終結した日露戦争後の政情不安があったとも言われますが、
ともかく合祀政策によって廃社となれば境内の樹木、社地などを売却できました。
例えば三重県では、僅か数年の間に、5,547社⇒942社!
日本全国では何と、約 七万社が廃社となったそうです。
このとき生じた現金の総額は幾らぐらいだったのでしょう?
ただ、これまで行った神社で、住民の熱意によって復活した例も見てきたため
実際には正確な数はわからないし、今も変化していると考えるべきでしょう。
 
今日、「藍川」の地名が残っている場所へ行ける幸運に感謝しています。
古事記』『日本書紀』にある「藍見川」や「喪山」へも行くつもりです。
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長良川の「藍見川」にかかる「藍川橋」。車で走りながら撮ってます。
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この天気ですから他の写真も推して知るべし…。なので夕食をUP!!
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天然うなぎを本場で食べるのを楽しみにしていました。
こちらは切ってパリッパリに焼かれた関の老舗「辻屋」さんの上丼です。
私はどちらかと言うと蒸しが入らないパリパリの鰻が好きなので大満足。
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以下、12/15追記。
 
結局「喪山」へは行けませんでした。その前の金峯神社で日没。
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明るく撮れてこんな感じ。この先の階段は肉眼では真っ暗でした。
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もうシャッターもおりない状態です。そして神仏習合らしく、階段は108段⁉
13日は小雨模様とはいえ、傘をささずに歩ける程度でした。
ここから記憶を戻しつつ画像をUPします。
 
翌朝、高賀山へ行くために宿を探したら関観光ホテルしか空いておらず、
岐阜市からホテルへ向かう途中にある神社をまわった次第です。
ここ関市武芸川町小知野の金峯神社の前が岐阜市福富の富貴龍神でした。
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むむ!? この画像を見ると石に〆縄がかけられていますね。
社地が切り売りされたのか周囲が共同墓地のようになっていたものの、石組の上に
祠、手前に拝殿がありました。が、もしかすると、ここで完結していたのかも?
 
その前が岐阜市北一色の吉野神社。通りすがりの聴衆が!?
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その前が兒神社で、子ノ神社との関係を知りたかったのに由緒書がなく不明。
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兒神社同様、長良川木曽川に挟まれた羽島市にある高桑八幡神社
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あっ、これはよく尾張地方で目にする「蕃塀(ばんぺい)」ではありませんか!?
神社の拝殿の前にある衝立状の「蕃塀」は、あま市伊福部神社でも見ました。
辞書に「皇大神宮豊受大神宮の東西南北の板垣御門外にあって障蔽をなす塀」と
あるように、延暦23年(804)の『皇大神宮儀式帳』と『止由氣宮儀式帳』に
すでに内宮・外宮ともに「蕃垣」があったことが記されています。
ただし江戸時代に造られるようになった尾張独自の不浄除けの「透垣」が
伊勢神宮の「蕃垣」の影響で造られたかどうかは明らかでないそうです。
 
そうか、羽島市 岐阜県だけれど、かつては尾張国だったんですね。
羽柴秀吉が葉栗を羽栗郡と改称し美濃側に組み入れたのでした。
きっかけは天正14年(1586)木曽川の大洪水で、
この地域は水害により何度も境界線が変わっているそうです。
 
下流域で木曽川揖斐川と合流・分流を繰り返してきた長良川も、
天文3年(1534)の大洪水で井水口が破堤して井川(現 長良川)を形成するなど
治水工事が繰り返された結果、川沿いの神社が移転・縮小されてきました。
今回は岐阜羽島駅からその長良川沿いの神社を見ながら北上する予定でしたが、
尾張一宮駅から車に乗せて下さることになり、さらに南の
安八郡輪之内町本戸鎮座の吉野神社から北上することにしました。
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いわゆる「元伊勢」の美濃国伊久良河宮の論社の一つ名木林(なぎはや)神社
木曽川改修工事により昭和9年(1934)8月30日に
当時の安八郡名森村大字大森宮東から現在地に移転しています。
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長良川沿いを更に北上し、安八町「森部633番2」の金峯神社
木曽川上流改修工事のため、昭和4年(1929)8月30日に「表655番」移転。
 
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小さな社殿のみになっていて残念。修験の痕跡は見あたりません。
山頂から山麓遷座させられた場合も同じですが、
遷座した神社を見ても往時のことは何もわかりません。
市街地の神社はそれを実感するためにまわっているようなものです。
今回も翌日の山間部の神社との対比が主目的でしたが、
肝心の「喪山」へ行けなかったので再訪しなくてはなりませんね…。