藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

那珂

またしても常磐線常陸国へ向かっています。
先日ちょっと書いたように那珂の様子を見に。
 
常陸国風土記』に「いにしえは相模国の足柄のやまより東の諸々のあがたは
吾妻国と言い、常陸という国名はまだなかった。新治・筑波・茨城・那珂
久慈・多珂の小国に朝廷から造・別が派遣されていた」とあります。
大化改新後、646年に常陸の国が設置されたそうです。
 
風土記文武天皇元正天皇の母・元明天皇の勅により編纂されました。
今日まで写本が残っているのは常陸・出雲・肥前・豊後・播磨の5国と
言われますが、そもそも何ヶ国が編纂・提出したのかはわかりません。
740年頃まで戸籍を提出しない国さえあったわけですし。
 
常陸国風土記』は和銅6年(713)に編纂され、養老5年(721)に成立。
もちろん出雲国風土記などと同じく書き換えさせられた可能性はあるでしょう。
鵜呑みにするわけではありませんが、世界の古代文明が川沿いで発達した
という視点からも、突端と同じく川沿いの風景に興味が湧きます。
という次第で、先日久慈川の源流たる山本不動尊へ行ったので
今日は那珂川沿いを歩いてみたいと思います。
 
先ずは、堀町の吉田神社。西原古墳群に隣接しています。
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しかし、偶像崇拝は神社としてどうなんですか?
(実はコレ↓水戸中の神社で見かけます。配って歩いている人が居るのかも…)
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しっかり避けて演奏してますが、古墳の上だったらごめんなさい。
 
那珂川の西側を北上して藤内神社
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恐らく古社なのだろうと思われますが、左手に公民館!?
 
更に北上して今回のメインとも言える那珂西神社
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先週行った佐竹氏の水戸八幡宮遷座させられた場所です。
元々別の神社があった場所に遷座して再び水戸へ戻ったという感じですが?
振り向くと竹藪もあり、名称は変わっているかも知れませんが、
那珂西神社そのものが古社の雰囲気を漂わせています。
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しかし、ここまでもここから先も全て光圀公絡み…‼
とってもマメな方だったんですねえ。
5分ほどで草懸神社。ここから那珂川を渡って南下する予定です。
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何となく、すぐ右手が川でもおかしくない気がするのですが?
地図を見ると那珂川までは500m、その支流までは100mほどでした。
 
残念ながら那珂川では良い写真を撮れなかったので
是非とも源流たる那須岳山麓へ行ってみたいですね~。
その東側に位置する八溝山地は佐竹氏の金山ではありませんか!?
馬場都々古別神社の旧地とされる武鉾山と都々古和気神社
中途半端に終わってしまったため再訪の機会を探ります。
 
那珂川の東側の道へ出て川沿いに南下すると國神神社
名前からすると、那珂の国主を祀っていたことになりましょうか?
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長い長い参道でした。
まさか両サイドが蜘蛛窟なんてことはありませんよね?
 
次に向かったのはひたちなか市田彦の吉田神社
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おおお、やっと由緒書がありました。
もともと熊野権現が祀られていたのを光圀公が七面明神に改めて鎮守とし、
安政3年(1856)日本武尊を祭神とする吉田神社になったそうです。
ご苦労なことです。
 
ところで七面明神とは何ぞや? と帰宅してから調べました。
日蓮上人の身延山を鎮守する霊峰として七面山があり、
その守護神として勧請されているのが七面大明神なのだそうです。
(ただし、日蓮本人は七面山へは登っていないらしい…)
七面大明神七面天女とも呼ばれ、日蓮宗においては法華経を守護する女神。
日蓮宗の総本山 身延山久遠寺の守護神として信仰され、
各地の久遠寺ゆかりの日蓮宗の寺院で祀られるようになったのだとか。
ただし七面山の山岳信仰日蓮宗が誕生する前から存在しており、
土着の信仰が仏教の善神へと習合されたと考えられています。
 
ここでハタと気づきました。高松松平藩主は法華経の強信者でした。
初代藩主 松平頼重公は光圀公の同母兄で、光圀公は兄の嫡男を水戸藩主にし、
自身の嫡男を兄の養子にして高松藩を継がせました。
そのため、この二藩は一心同体のようなもの?
藍川家は江戸時代に小石川と讃岐 宇多津に分かれて仕官していました。
高松藩の士族は頼重公が高松から通っていた宇多津の本門法華宗本妙寺
(かの本能寺の末寺)の檀家となり、藩主から下賜された家紋を用いていたため
本妙寺墓所へ行くと同じ家紋がズラーっと並んでいます。
子供の頃に衝撃を受けたこの光景がいま役立とうとは…。
 
そんな人の世の思惑をよそに、吉田神社では梅がきれいな花をつけていました。
あれ? もしかして、桃?
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