取り敢えず、内原という駅でタクシーに乗ろうかと…。
『神無き月十番目の夜』(1997)に描かれた十日夜(とうかんや)の事件は
慶長7年(1602)陰暦10月10日の夜に起きた大虐殺でした。
「神」はもはや、いない。
どんなに森の奥、山のなかに分け入り、探そうとしても。
「近代」の支配者は、こうした「神」を殺し、
山の村の百姓(民衆)たちを抑圧しようとした。
との言葉は私の印象とほぼ重なります。
では「神」は、かつて存在したのか?
いま我々がイメージする日本の「神」とは恐らくヤマト王権が定めたもの。
そして朝廷は「神」のための音楽を「御神楽(みかぐら)」とした。
その「御神楽」にはどんな意味・役割が与えられていたのか?
私の疑問はまだまだ解消されそうにありません。
『神無き月十番目の夜』によれば
十日夜の収穫祭、鎌上げの祝いの日に小生瀬の村人(300人超)が鏖殺されました。
『水戸歴世譚』によって初めて世に知られることになりましたが、その記述は
事件から200年後の文化4年(1807)以前に高倉逸斎が小生瀬に赴いて聞き書きした
『探旧考証』からの引用で、村が全滅したため年代すら間違っていました。
元和三年丁巳十月、水戸生瀬の百姓、徒党し法を背き賦を貢せず、
収納の役人を打殺す、信重大いに怒り、物頭を率て彼地に向ひ、
一村の百姓残らず誅戮、遺類なし、邦内その威に服し、震恐しけるとなり。
この事件は、昭和56年(1981)に朝日新聞日曜版の「日本史の舞台」で
「密封された『血の祝日』」として特集され、翌年まとめて出版されました。
平成9年(1997)には飯嶋和一氏が書き下ろした『神無き月十番目の夜』が
世に出て注目されました。
佐竹氏移封直後に起きた大虐殺事件を、飯嶋氏は単なる
年貢に不満を持つ百姓と下級役人の抗争=百姓一揆の一つとしてではなく、
時代の転換期に生じた歪みに起因する一大悲劇として描かれています。
一坪=七尺四方を六尺三寸に変えることで年貢の二割増しを図りました。
村共有の神事に使う米を収穫する「神田」を「隠田」や「漏れ田」として摘発。
神聖な田畑や杜にまで踏み込んで検地を推進していったのです。
地域は、常に南下を目論む伊達政宗の脅威にさらされていました。
そこで佐竹義宣は古来からの保内衆の権利を認め、それぞれが自分の土地を
守るとの意識を高めることで北の防衛線を固めることにしたわけです。
保内衆は戦闘力を維持するために、米をたらふく食べることが出来ました。
藩主から頼りにされた保内の民は常陸国のどの民よりも誇り高かったのです。
そんな彼らの領域を新官僚としての「制度的武士」らが土足で荒らして
古代の森の「神」の殺戮を行ない、戦国時代的「中世」を終わらせた…。
神仏混淆を禁じて2,000以上の寺院を整理したり、
一郷一社の制を定めて3,000以上の神社を整理したりしたそうです。
のちの水戸藩主の中では、最後の将軍の父 徳川斎昭(1800-60)が
寺院の釣鐘や仏像を没収して大砲の材料とするなど、仏教を抑圧し
その斎昭は、仏教弾圧事件などで罪に問われ、弘化元年(1844)に
幕府から「家督を嫡男に譲り強制隠居」の謹慎処分を命じられています。
そんな水戸の一社目はGoogle Mapsで見てもよくわからなかった立野神社。
道路脇に忽然と姿をあらわした杜!! (いや社叢の中を車が走っている!?)
入り口に横たわる丸太が車の進入を阻んでいます。
徒歩で入るのは構わないんだろうと社殿の方へ歩いてゆくと、
社殿の正面に鳥居がありました!
由緒を書いた看板があり、境内地は1,391坪だそうです。
大同2年(807)9月創建。
七石の地を寄進された。
寺社改革に光圀並みの執念を見せた斎昭が遷したのでしょうか?
杜の中の木の根っこに、このように点在しています。
思いがけず、平野で森林浴できました。
しかも目指すは常陸津田なので、少しでも東へ進まないと。
鳥居と正反対の真裏に停められてしまい、工事車両が停車している間を縫って
裏参道の鳥居を見つけ、ぐるりと回り込むと社殿がありました。
おお!? 水戸光圀公お手植えの榊ですって。
水戸家と吉田神道の関係の深さをうかがわせる榊ですよね?
ただ、他社の樹齢400年の榊は幹周が2m前後ありましたけどね…。
ちょうど神官の方が居られたので祭神をお訊きしてみました。
「うちはあそこに書いてある7社をお祀りしています」
「ということは、日本の神を守る吉田神道ですから
各社がそれぞれ地元の神を祀り、祭神が違うわけですね?」
「はい、あちらに書いてある通りです」
●八幡・鹿嶋神社●冨士神社
ということで、可能な限り吉田神社の祭神とやらを調べることにしました。
本日の二社は水戸徳川家お墨付きの「由緒正しき」神社でした。