藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

志摩国一宮

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古来より加布良古大明神、志摩大明神と称し、
地元の安楽島(あらしま)や近在で「かぶらこさん」と呼ばれてきた志摩国一宮
伊射波神社は延喜5年(905)醍醐天皇の勅命で編纂された『延喜式神名帳』に
志摩国三座 大二座・小一座 粟島坐 伊射波神社 二座 並大
               同嶋坐 神乎多乃御子神 小一座
とありました。
ん? 「乎多」?
この辺りで「をた」と言えば、直前のブログで引用した「尾田」でしょう。
答志島と安楽島は近いだけに微妙ですね。
『神功紀』に
「尾田の吾田節(後の答志郡)の淡郡(粟島=安楽島)に居る神」とあります。
 
延喜式』によれば、安楽島の古名である粟島に伊射波神社があって二柱の神が
祀られ、格式はともに大社。小社として神乎多乃御子神がありました。
大二座のうち伊佐波登美尊を祀った伊射波本宮は安楽島町字二地の「贄」に鎮座。
おおお…「贄」とは!? (神楽歌《薦枕》の歌詞にも出てきます)
 
この地は昭和47年から61年にかけて鳥羽市教育委員会が発掘調査をし、
『鳥羽贄遺跡発掘調査報告』で全貌が明かされているそうです。
縄文中期から平安中期に至るまでの連続した時代の複々合遺跡からは
夥しい数の製塩・祭祀用の土器、儀礼用銅鏃、欅の巨木を刳り抜いて造った井戸、
神殿と思われる建物跡などが発掘されていることから、
古代伊射波神社二社は「贄もつ神」として崇敬を集めていたと考えられています。
伊射波本宮の伊佐波登美尊は、第十一代垂仁天皇の皇女倭姫命が伊勢の内宮に
天照大神の御魂を鎮座させた折に協力し、志摩国の新田開発に功があったとか。
のちに大歳神と号されましたが、伊射波本宮が衰退したため伊射波神社遷座
 
その伊射波神社は加布良古崎で稚日女尊を祀っていました。
加布良古大明神とも称され、朝廷に捧げる贄物の一部を奉納された別格の神でした。
『外宮摂末社神楽歌』に、古来、
安楽島の海で行なわれた朝廷に捧げる鮑を採る神事の様子が歌われています。
 
志摩国知久利ケ浦におはします、
悪志赤崎(あくしあかさき)、悪志九所の御前には、あまたの船こそ浮かんだれ。
(とも)には赤崎乗りたまふ。
(へ)には大菩薩(加布良古大明神)乗りたまふ。
知久利ケ浦の貝の実を、誰が食ひそめて御饌に参る。
知久利七所、悪志九所の大明神、
加布良古の外峰に立てる姫小松、沢立てる待つは千世のためし、
加布良古の沖の汐ひかば、宮古(都)へなびけ我もなびかん。
加布良古の大明神に、遊びの上分(かみあがち)参らする請玉の宝殿(たからのみやから)
 
ともあれ、伊射波神社を目指します。
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最初はずっと上り下りのある道でピクニック気分で歩いていたら眼前に浜辺が!!
いったん浜へ出ることが重要…というか禊の浜のように感じました。
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左手に社号があり、ここから延々と自然石の階段が続きます…。
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千里の道も一歩から…。歩いていればいつか着きます。
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ほら、鳥居が見えてきました。
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きれいに整備された道を進みます。
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そして社殿に到着。
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ここから250mで断崖絶壁に到達する道がありましたが、午後のために体力を温存しました。
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次の機会が与えられれば是非。
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そうして来た道を森林浴をしながら楽しく戻りました。
ご案内くださったN様に心より感謝申し上げます。
 
さて、小社神乎多乃御子神です。
神乎多乃御子神の祭神は狭依姫命で、宗像三女神の一柱、
厳島神社の祭神でもある市杵島比売命の別名だそうです。
 
加布良古崎の前海にある長藻地という島嶼に祀られていた神乎多乃御子神
戦国時代に地震で水没してしまい、今は海底1.8mに鎮座しているそうです。
ただし御神体(石体)は村人らが見つけ、伊射波神社に合祀されているとか。
時が移ろう中で三社が一社のみになってしまったのですね…。