5ヶ月ぶりに帰省し、朝、窓を開けたら草ボウボウ!?
滞在中に刈って貰うのは無理としても、一応お願いしておかなくては!
と電話をかけると、午後からやって下さることになりました。
諦めざるを得なくなりました…。
ですが、このままじっと家に居るような私ではありません。
アコも一人でお留守番しなくていいのでタクシーを呼びました。
古代、わが故郷うたづは讃岐国鵜足郡津野郷(現在も字名に「津之郷」あり)で
聖徳太子の時代の地図に四国では「鵜足津」のみ書き込まれていたのを
見たことがあります。こんぴら詣りの港の一つとしても知られていました。
宇多津町と、現住所では隣市となる丸亀市との境に青ノ山があります。
宇多津小学校の時、遠足と言えば、坂出市との境になる聖通寺山か青ノ山でした。
聖通寺山には古墳時代前期とされる積石塚古墳があります。
青ノ山は岐阜の青墓と同じく、その名「青」が意味する
「死」「喪」の山でした。山頂には青ノ山古墳群があります。
滞在期間中に行けると良いのですが…(桜の名所です)。
地図を見ていたら、青ノ山南麓に青ノ山唯一とされる前方後円墳がありました。
ちょうど青ノ山古墳群の真南です。
古くは若王子宮があり、現在は古墳の一段下に吉岡神社が建っているそうです。
「あ、あれです、きっと! 向こうに見えるのが青ノ山ですよね?」
物凄い階段だったのでズルをして左手の舗装路を上がって貰いました。
吉岡神社です。振り向くと立派な門があります。
階段上から見えました讃岐富士。階段下はこんな感じ↓
さて、前方後円墳を目指します。
社殿の奥にそれらしい階段と「若王子大権現」の扁額のある鳥居が!
いや、しかし…これは?!
あとで案内板を読んだら石室の真上に若王子宮が建てられていたようです。
どうもここが後円部にあたるらしいので、どんどん北に進んでみました。
しかし行けども行けどもこんな感じなので戻りました。
古墳の全長は51mだそうです。
さっきの若王子宮跡です。
この後円部の直径は24m、高さ4mとのことですが、どこからの高さでしょうか?
ちょっと急な階段を下りて(この階段だけでも4mはあると思われます)、
なぜ讃岐に伊勢が?
今日の暖かさで伊勢神社の桜が咲き始めたようです!
当初、雨(50%)の予報だったのにハズレてくれました。
本殿はこんな感じ。伊勢神社は神明造りではない!? またまた謎が…!!
創建時期は不明。飯野山山頂の岩石群を磐座としたのが始まりと言われています。
近頃ふつうの事典や辞書などを参考にするにつれ、根拠が示されていない社伝を
鵜呑みに出来なくなってきています。
『古事記』に飯依比古が出てきたこととも関連があるのでは?
そして讃岐には景行天皇ゆかりの伝説が多いのですが、
その名前が出た時点でヤマト王権に屈したと考えるべきなのでは?
北西の伊勢神社、南西の飯神社の5社は歪な五角形になっています。
不思議なことに香川県神社誌によれば、伊勢神社は
「飯野村村社吉岡神社の境外末社」なのだそうです。
なぜ飯野山にある伊勢神社が、飯神社ではなく、
青ノ山にある吉岡神社の末社なのでしょうか?
こうなると吉岡神社を調べなくてはなりません。
吉岡神社の名は何と明治以降につけられたもので、
往古は若王子宮であったそうです。
それが安政4年(1857)4月13日より社内鳴動すること3日間、
19日に神像が出現し、その背面に行方親王と刻まれていたとか。
奇妙な話ですねえ…。古墳の主の名前とも思えませんが?
それ以降(?)明治維新まで石ケ鼻神社と称ばれていたというのです。
(アッ、もしかして前方後円墳の石室部分の端っこを守る神社という意味??)
このように不確かな話をどう解釈しても無駄…という気がして
もっと確かな情報を探したら、古墳から古式布留式土器が出ていました。
弥生時代以降の土器は、
野焼き中心の縄文土器から、土や泥を被せて焼く覆い型の弥生5期式に移行し、
よって、吉岡神社前方後円墳は4世紀前半に築かれたと推定されています。
沿岸部を支配する新しい勢力が誕生したのでしょうか?
そして、その勢力が青ノ山に古墳群を築き、飯野山を征服して
山麓に伊勢神社を創建したのか、或いは元あった神社の祭神を変えたのか、
未だ判断材料が見つかりません。
地元のことすらわからず、今までいったい何をしてきたことやら…。