「氷川三社」という呼称があるのかどうかわかりません。
ただ、偶然、地図上で氷川女體神社・中氷川神社という名を見つけ興味をもちました。
そんな疑問を抱きつつも、なかなか足を運べずにいたところ、
起床後、天気予報を観て、「今から行こう」と思い立ったのでした。
ヘルメットを被って6時間以上走るとなると熱中症がこわいのですが、
最高気温を見ると、5/27は27℃、今日なら23℃です。
しかしながら、五十日(ごとおび)の金曜。道が混むに決まっています。
逡巡したものの、12時半に出発。
画像右上部にうっすらと筑波山が見えました。
今日はここから水田まで下り、利根川の南岸沿いに農道を走ります。
実はちょうど20年前の5月、現在の家に引っ越したばかりで、未だ
段ボールも開梱できていない状態の拙宅に突然いらっしゃったのが
映画監督の若松孝二さんでした!?
「早朝からゴルフをやってたんだよ」とのことで
全部屋を見学され、コメントを下さいました。
さまざまなご職業を経験された若松監督は建築にも詳しかったのです。
その日は家人が「これから大学へ行かねばなりません」と申し上げると、
「車で送って行くよ」と仰り、この農道をスイスイ走られたとか。
よもや20年後の5月に、私が一人、キャノピーで走っていようとは…。
土手に上がりました。右手に常磐道が見えています。
どちら側からも利根川の流れは見えませんね…。
ここまでは信号もなく快適な走りでしたが、ここからが渋滞地獄!?
夕方はもっと酷い状態になることでしょう。往路2時間強の予定が3時間!!
ようやく氷川神社に着きましたよ。
浦和東高校あたりから大宮駅へ向かう道が狭くて身動きがとれなかった上、
高鼻町の氷川神社に着いても、駐車場がわからずグルグルまわりました。
ほんとうは立派すぎる神社には興味が無く、気が進まなかったのですが、
氷川女體神社に「磐船祭 祭祀遺跡」があると知って訪ねることに。
氷川女體神社までなら、道路が混む確率も低く、2時間ほど早く帰れたはず。
ですが、ここはやはり直線で結ばれた三社を見ておこうと思いました。
とはいえ、先に氷川女體神社へ行ったらそのまま帰宅しかねないので
最初に一番遠い氷川神社へ向かったわけです。
周辺が大宮公園として整えられていて、そこへ迷い込んでしまったため
なかなか氷川神社の駐車場へ辿り着けませんでした。
北東に位置する小動物園って…、南西の駐車場の真反対じゃありませんか…。
散歩中の方に尋ねたら「駐車場は有料とか無料とかいろいろありますけど
道が直線じゃないので説明しづらいですね…」と言われたので、直感で走りました。
ここへ出たけど、本殿じゃなさそうですね…。
それに、目指しているのは本殿ではなく蛇の池なんです。
境内案内図の上部左寄りにある赤い橋を渡ると、右が↑の宗像神社、
左が蛇の池方面への道です。正面に案内板がありました。
どんどん人がやってきて、蛇の池への道を歩いてゆきます。
少し歩くと、右手に造りっぽい人工池?
構わず先に進むと蛇の池に着きました。
自然にできた池ではなさそうですね…。
ともかく周囲も水だらけ。見沼=水沼だし。古地図を見てみましょう。
下方右寄りに氷川女體神社が一直線に記載された画像がありました。
そもそも見沼とは何ぞや?
「阿波の国美馬郡の美都波迺売(ミツハノメ)神社は、注意すべき神である」をテーマに
「美馬の郡名は、みぬま或はみつま・みるめと音価の動揺してゐたらしい地名である。
地名も神の名から出たに違ひない」と書かれていました。
宮廷の大祓式は、あまりにも水との縁が離れ過ぎてゐた。
祝詞の効果を拡張し過ぎて、空文を唱へた傾きが多い。
古式を飜案して行つて居た。
わりに古い型を守つてゐたものと見てよい。
さうして尠くとも、此にはあつて、宮廷の行事及び呪詞にない一つは、
みぬまに絡んだ部分である。
大祓詞及び節折(ヨヲ)りの呪詞の秘密な部分として、
発表せられないでゐたのかも知れない。
だが、大祓詞は放つ方ばかりを扱うた事を示してゐる。
禊ぎに関して発生した神々を説く段があつて、
其後新しい生活を祝福する詞を述べたに違ひない。
そして大直日の祭りと其祝詞とが神楽化し、祭文化し、祭文化する以前には、
みぬまと言ふ名も出て来たかも知れない。
この折口説に影響されて、全国各地のみぬま・みづま・みるめ・みま地名に
足を運んできました。最後の大物が埼玉県の見沼だったということです。
宮廷の大祓式にみぬまに絡む部分が無いというのは、それこそが
ヤマト王権以前の祭祀を封印したことを証明しているのかもしれません。
同時に、みづま(古代の発音は「ミドゥマ」に近い)とみづち(「ミドゥチ」)の
関係についても考え続けてきました。
みつちは蛟とも書き、日本の神話・伝説で水との関係が指摘される
龍蛇類または水神のこととされ、常陸国には関東で最も古い水神と
見做されたいる蛟蝄(こうもう)神社があります。
関東最古の水神の社と言われていますが、見沼は古地図のスケール感から
それなりの歴史ある水神・蛇神の祭祀があったのではないかと思われます。
見沼の古地図にある通り、社殿に向かって右手が急な下り坂で
古代より台地(をか)に鎮座していたことがわかります。
実は当社に興味があったわけではなく、鳥居の右手に鎮座している
アラハバキに惹かれてやってきました。
関東でお目にかかれるのは珍しいのではないかと思い。
まさしく荒脛(アラハバキ)神社ですね。
いわゆる門客人(もんきゃくじん)神社のようです。
門客人とは、その地に元々祀られていた神でありながら、ヤマト王権に平定され、
記紀に登場する神に置き換えられて境内の隅へ追いやられた旧祭神を指します。
ふと、ここで、高鼻の氷川神社への疑念が湧いてきました。
先ず地名の「高鼻」は、鎮座地が見沼の低地に突き出た大宮台地にあるからですって?
高い鼻なら、私はむしろ猿田彦を連想しますが?
出雲の「斐伊川(ひいかは)」にちなんで「氷川」の神号を賜ったとあるそうです。
縄文から続く"まつろわぬ神"アラハバキには手足の名をもつ神が多く、
『江戸名所図会』(1834-1836)は、大宮氷川神社の項にこう明記しています。
「荒波々幾(アラハバキ)の社 本社の傍に在 手摩乳 足摩乳 二神を祀る」
(国立国会図書館デジタルコレクション)
『江戸名所図会』では中央の「宗像社」の周囲は大きな池ですね。
今日歩いて行った「宗像社」左奥の「蛇の池」は描かれていません。
私が撮影した氷川神社の画像とこの絵図とはかけ離れているようです。
そして 「男體宮」と「女體宮」が並ぶ本社の右脇にある荒波々幾の社は
門客人神社としてヤマト王権以前の祭神を祭っているとのことです。
では、今の氷川女體神社は?
(国立国会図書館デジタルコレクション)
『江戸名所図会』に「三室村 元簸河神社」と書かれています。
本文には「宮本簸川大明神社」とありますが、絵図の「元簸河」が気になります。
「土人 宮本の簸川社(ひかはのやしろ)と称へ 又 女躰宮と号す」元簸河神社というのは
大宮氷川神社の元宮が現在の氷川女體神社とも解釈できそうですが…?
それにしても正確な絵図ですね。
左ページの左下隅に描かれた円形祭祀場は、実は近世の祭祀遺跡なのだそうです。
氷川女體神社の御手洗瀬に神輿を渡御させる「御船祭」の神事ができなくなった
代わりに鳥居下の突端に土壇を設けて周囲に池を配し、「磐船祭」の祭祀場としたが、
江戸時代の終わりに祭が廃止されたため祭祀遺跡として残したとのことです。
「四本竹」と書かれた位置に、諏訪の御柱のように4本の木が立っていました。
この画像では2本ずつが重なってしまい、2本にしか見えませんが。
円形祭祀場への入り口を見ると、周囲が池だとわかります。
この橋を渡って戻ってみましょう。
円形祭祀場入口の手前に氷川女體神社の末社宮本弁天社が見えます。
『江戸名所図会』にも描かれていましたね。
1727年に始まった祭祀遺跡とは思えないほど、古代の雰囲気を感じる場所でした。
参道の鄙びた感じもステキです。
見沼代用水西縁に架かる赤い橋の手前まで戻って、祭祀遺跡への参道を撮りました。
振り向くと、本殿まで一直線になっているとわかります。
わかりやすい案内図がありました。
橋を渡って戻る前に隣接する見沼氷川公園を少し歩いてみます。
こちらの公園も人が少なくて凄く静かな落ち着く空間です。
ここで5時になりました。そろそろ帰途に就くとしましょうか。
本殿への階段はのぼらないままでしたが。
そもそも各国の一宮、二宮…という格付けは不確かで根拠が乏しいと言われますが、
かつての見沼を走ったことで地形がよくわかりました。
走ってきた道、大宮駅方面を振り返って撮りました。
かつての"香取海"を走っているのと同じ感覚でした。
見沼の干拓地を走り、このなだらかな坂をのぼったら狭い一車線の道路が続き、
先の見えない渋滞が待っているので、迂回路を探して帰ります。
夕陽に見送られつつ、目的地を頻繁に変え、土手に上がったりしながら帰宅中…。
夜8時に帰宅して地図を見たら、10~20km余計に走ってましたが、
こういう道だと3時間ぶっ続けで運転しても疲れません。
今日も一日ありがとうございました。
次は、いつ出かけられるかわかりませんが、
先ずは6/28のコンサートに全力を尽くします。