藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

淡路国三原郡

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大鳴門橋を渡っています。微かに見えるのは小豆島でしょうか?
 
昨年、淡路廃帝淳仁天皇へ行った際、直ぐそこに見えていたのに
淳仁天皇とともに淡路へ流された母の当麻夫人墓へ行けませんでした。
それが心のこりで再訪を決め、地図を見ていたら、地元の人々が今も霜除けの菰を
かけているという天皇があったので、それを今日のテーマにしました。
 
現在天皇の隣にある大炊神社淳仁天皇の御名「大炊王」を冠しています。
淳仁天皇天皇経験者として初めて流罪になったのは、よく知られている通り
孝謙上皇が僧道鏡を重用し始めたことに端を発しています。
そして配流された翌年に逃亡を図り、翌日に崩御したとされることから
暗殺説が根強く、淡路国には複数の淡路陵伝承地があります。
 
「別ニ口碑傳ヘテ淡路墓トナスモノ丘松ノ西十餘町、中島邑ニ在リ」
との伝承が大炊神社の場所を指し、天皇淳仁天皇墓所とする説があります。
淡路配流となった「大炊王」が一ノ宮妙京寺を経て幽閉された行宮跡とのことです。
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こちらが天皇のようですが、みなさんが書いておられるように
杉の木は見当たりません。けれど菰があるので間違いないかと…。
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見たことの無い不思議な形状です。
 
さて、第47代「淳仁天皇」というのは明治3年7月24日(1870年8月20日)
明治天皇から贈られた諡号で、それまではずっと「淡路廃帝」のままでした。
暗殺された可能性が高い「大炊王」は、772年に光仁天皇が僧60名を派遣して
斎を設け、鎮魂を試みたほど、怨霊として皇室を悩まし続けたようです。
 
続日本紀』にこう記録されています。
天平神護元年十月庚辰、淡路公、幽愼ニタヘズ垣ヲコエテ逃グ。守佐伯宿禰助、
接高屋連 並木等、兵ヲ率ヰテコレヲサヘギル。公、還リテ明日院中ニ於テ甍ズ」
 
宝亀九年三月 勅淡路親王墓宜称山陵 其先妣当麻氏墓称御墓充随近百姓一戸守之」
 
現在、淳仁天皇の生母 当麻山背の淡路墓は宮内庁が管理しており、
崇道盡敬皇帝(舎人皇子)妃 大夫人山背 淡路墓」と掲げられています。
天武天皇の子で日本書紀の編者として知られる舎人親王天皇になっていないため
天平宝字3年(淳仁天皇の御代)に「皇帝」の尊称を贈られました。
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淡路島だけあって玉ねぎがそこここに干してあり、物凄く美味しそうな匂いが!?
そして
当麻夫人墓には夥しい数のコシアキ(腰空)トンボが飛んでいました。
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せっかく淡路島を訪問するのなら是非とも『琴歌譜』の《歌返(うたひかへし)》に
出てくる「淡路の三原」へ行きたく、淡路に屯倉がつくられた頃の海岸線に近いと
思われる湊口神社へも行ってみました。
道が非常に狭く、右往左往しながら行ったら、大きな神社でした。
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しかも境内社が五つ六つと並んでいます。
応神天皇の第四皇子(第16代)仁徳天皇も祀られていました。
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こちらは↓応神天皇の戸籍上の父(第14代)仲哀天皇が祭神です。
仲哀天皇の御世に「淡道(あはぢ)の屯家(みやけ)を定めたまひき」(『古事記』)
ありますが、第15代 応神天皇神功皇后の胎内におられた時から国を治めていた
とされる胎中天皇ゆえ、胎内にいた時に屯倉を定めたのだとも言われています。
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仲哀天皇応神天皇と深い関わりのある淡路の三原を詠った
『琴歌譜』の歌詞はこちら。
 
之万久尓乃安波知乃美波良乃之乃
佐祢己自尓伊巳之毛知支天安佐川万乃
美爲乃宇倍尓宇恵川也安波知乃美波良乃之乃
 
これを演奏するため淡路島へ来たようなものなのに、何と譜面がありません!?
ここ何年か歌っていないけれど、思い出すかも知れないとチャレンジ…
したものの、繰り返しがわからず止まってしまいました。
古代歌謡では、一つの譜を異なる歌詞で歌うケース(いわゆる替え歌)が多く、
曲の長さと歌詞を合わせるために繰り返しをするのです。
上の『琴歌譜』の「しづ歌の歌返」の歌詞を演奏すると↓このようになります。
 
      しまくにィのー あはぢーのォみーはらーの しーの
      シーヤさねこーじィにィ シーヤさねこーじィにィーさねこじィに
      イーヤーいこじもォちきて シーヤあさづーまァのォォ
      シーヤあさづーまのォォあさづまァのォ
      みゐーのォうへに うゑェーェーつーゥーーゥや
      あはぢィーのォみはらーのォ しのうゑェつゥしィーの
      あはぢィーのォみはらーの しのうゑェつゥしィーーーの
      しのォォーォ うゥゑェーつゥしィのォ
      しィーのォうゑェつゥ しィーのォしーのォ
 
まことに恥ずべきことながら、歌詞は覚えていても繰り返しがウロ覚えでした。
ただし同じ「此者志都歌之歌返也」とある《枯野》の譜を持っていたので、
視力0.05ながら懸命に別の歌詞を譜にあてはめて歌おうと試みています。
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とほほ…、こんな惨めな格好で演奏していたとは!? 近視はつらい…。
しかし途中で《枯野》も淡路島絡みの歌だったと気づき、直ぐに方針を変えました。
 
加良怒袁 志本爾夜岐 
斯賀阿麻理 許登爾都久理 賀岐比久夜 
由良能斗能 斗那賀能伊久理爾 
布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜
 
からぬを 塩(しほ)に焼き
(し)が余り 琴に作り 掻き弾くや
由良の門の 門中(となか)の海石(いくり)
振れ立つ 浸潰(なづ)の木の さやさや
 
古事記』下巻 仁徳天皇の段にあるこの歌の前文↓です。
 
此之御世、兎寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、
高安山。故切是樹以作船、甚捷行之船也、時號其船謂枯野。故以是船、旦夕
酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。茲船破壞、以燒鹽、取其燒遺木作琴、其音響七里。
 
「兔寸河の西に一本の高い樹木があり、そこに朝日があたると影は淡路島に届き、
夕日があたると影は高安山を超えた。この樹木を伐って枯野と呼ばれる船を作り、
朝な夕なに淡路島の清水を汲み、聖水を天皇に献上していたら船が壊れたので
廃材を焼いて塩を作り、その時、燃えない材木があったので琴を作ったところ、
素晴らしい音色が遠くの村里にまで響きわたった」というような意味でしょうか。
今も和琴を作る際に桐材を焼くのは、堅く締まることで響きがよくなるためです。
 
やっとこさ《枯野》を歌ったあと、淡路国二之宮へ向かいました。
大和大国魂神社ということですから、各地方を治めていた大国主とは違い、
ヤマト王権から派遣されてこの国を治めたということですよね。
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右の看板に「日本書紀に登場する御原(みはら)の海人(あま)を統率したとされる
(やまと)氏ゆかりの神社」と書かれていましたが?
やはり、ここが三原(御原)の海人の本拠地だったんですね。
 
ちょうど湊口神社大和大国魂神社のあいだに位置する松帆地区からは
江戸時代にも、そして2015年4月にも大量の銅鐸が見つかっています。
その松帆地区に(第18代)反正天皇の産宮をおいたのは、(第14代)仲哀天皇の御代に
淡路の三原に屯倉をおいて以降、ヤマト王権支配下にあったと示すためでしょう。
それほどまでに御原の海人のクニが重要だったということですね。
日本神話で最初に誕生したクニということは最初に支配下に置いたクニってこと?
(と書いて2016年7月1日に行った淳仁天皇陵のブログを探したら
産宮の画像がupされていなかったので慌てて追加しました)
 
ところで、この旅から戻った直後の2017年6月6日、市教育委員会などによって
これまでの常識を大きく覆す放射性年代測定の結果が発表されました。
2015年4月に発見された松帆銅鐸7個は紀元前4世紀~紀元前2世紀前半に
埋められたとみられることが付着していた植物片で分かりました
 
銅鐸もコトも、ヤマト王権ができる前からあったことは立証済みです。
それゆえ古代祭祀のかたちを知るために古代歌謡を研究しているわけです。
 
大和大国魂神社から南下して仲哀天皇を祭神とする久度神社へも行きました。
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こちらも延喜式内社ですが、社殿は再建されたもので、それよりも
M先生ご夫妻の仲睦まじい様子に心がなごみますよね~(映画のワンシーンみたい!!)
先月に続き、今回もまた本当に楽しい時間を過ごさせて頂きました。
 
そんな旅の最後に、鳴門へ戻ってから一ヶ所だけ御無理をお願いしました。
6月1日に行った二ヶ所の御所神社の祭神 土御門上皇の「土御門天皇火葬塚」です。
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火葬塚のお堀を見て「水鳥だ!!」と言って撮ったら…「カメ」でした!?
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