藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

寶滿宮

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台風一過の青空!
雨どころか、陽射しが強くて焦げそうです。
 
今日のテーマは寶滿宮です。
白村江の戦(663)後に築かれた大野城の周囲に寶滿宮が鎮座していました。
大宰府竈門神社にも頭に寶滿宮が付いています。
これは単なる偶然とは思えません。
 
百済滅亡(660)後、倭国百済復興軍とともに朝鮮半島の白村江で戦い、
唐・新羅連合軍に大敗しました。
唐・新羅軍侵攻の脅威から中大兄皇子(天智天皇)は防衛体制を整えます。
●664年、対馬壱岐・筑紫などに防人と烽(とぶひ)を配備。
筑紫国水城を築く。
●665年、長門国に城を築き、筑紫国大野城基肄城を築く。
●667年、大和国安城讃岐国屋嶋城対馬国金田城を築く。
中大兄皇子が大津に遷都し、翌年正月に天皇即位。
 
対馬金田城(かなたのき)へは倭琴の旅を始めた2012年に行きました。
屋島は地元なので、今回は大野城(おほののき)基肄城(きいのき)
行ってみようと思ったわけですが…
整備された公園を見に行ってもしようがないので、寶滿宮をテーマに。
 
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寶滿宮 竈門神社から見た大野城です。
ぐるりと大きく一周してみて、博多湾が見通せる天然の要塞と納得。
大宰府の守護として築かれた大野城竈門神社 上宮が鎮座する宝満山(829.6m)
山頂がほぼ同緯度で、竈門神社大宰府の鬼門にあたることは偶然とは思えません。
 
社伝によれば、天智天皇の御代に大宰府が現在地に遷された際、
鬼門(東北)にあたる宝満山大宰府鎮護として八百万の神々を祀ったのが創祀で
天武天皇2年(673)に心蓮上人が山中で修行しているとき玉依姫命が現れたため
山頂に上宮を建てて当社の祭神にしたそうです。
 
こうして国の防衛と外交の窓口たる役所大宰府政庁(おほみこともちのつかさ)
整えられていったのでしょう。
 
大野城が築かれた際に遷座させられたのが王城神社だそうです。
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九州最古のゑびす様!?
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↑漫画?!
 
王城神社大野城の南なら、北には御陵寶滿神社
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この仰々しい縁起を読んで出掛けましたが? 土砂崩れでもありましたか?
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実は今日最初に行ったのが↑大野城市中の当社で、どうなることやらと
案じていたら、宝満山の真西に鎮座する寳滿宮(竈門神社新宮)
天台の修験者が竈門神社を守護していた時代の雰囲気を伝えているかのようでした。
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官幣小社竈門神社遙拝所」と彫られているように、当 北谷の寶滿宮
西南戦争後に社名を「竈門神社遙拝所」とされた時期があったようです。
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このような磐境がゴロゴロ…。
 
宝満山山頂と同緯度の北谷の寶滿宮から南下して、筑豊本線筑前山家」駅近くの
山家(やまへ)寶滿宮へ行きました。宝満山山頂と同経度でした。
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↑画像左端に踏切の遮断機が写っていますが、筑豊本線が境内を二分して
走っているため、中央に見える階段は歩道橋になっていました!?
 
宝満山からは距離がありますが、当社が元宮を名乗っています。
 
寶滿宮由来書に曰く、当社山家宝満大神は勧請由来の義に在らす
化現より以来降臨の本津宮にて万代不易の廟窟也と神俗共に申伝侍る
 
また、「後宇多院の御宇に筑前守藤原経衡と云ふ人大なる旱にあへり
雨を此の神に祈る時鏡を鋳て以て神前に掛け和歌を詠して曰く
雨降れと祈る印の有るならは水鏡とも思ふへきかは(此歌新続古今集に見えたり)
と茲に於て雨降ること大なりと云ふ」とあったので調べてみました。
 
この和歌を宮内庁書陵部・鷹司城南舘圖書印(永享戌午八月下澣謹序)
写本『新續古今和歌集』巻第十九で見つけましたが、私の能力では
雨ふれと いのる志るし能(の) 見え多良ハ 水可ゝ見と毛(も) 思ふへき哉
としか読めません…。改作されたのかどうかまではわかりません。
 
古社らしく筑紫野市無形民俗文化財の山家岩戸神楽が伝承されており、
拝殿の右手前に大きな神楽殿がありました。
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現在県内にある寶滿宮宝満神社は上記4社のいずれかから勧請されたようです。