藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

「東夷」征討&つつこわけ

今日も前回11/12と同時刻に宇都宮へ向かっています。
車を出して下さる方が宇都宮在住なので。
そこから例の如くアクロバティック(?!)に移動いたします。
本当は、ある山に行きたくて可能性を探っていましたが、
前回の赤城山と同じく、通行止めの区間があって断念しました。
遅れ馳せながら、GoogleMapsやMapFanなどでルートが出たからと言って
それに従ったら取り返しがつかない事態に陥りかねないと学習したわけです。
 
今日は1/5の取りこぼし分をカバーする旅。
 
勅命により湯殿山を開くため東北へ向かった空海が各所に寺などを
創建したのは、征夷大将軍によって葬り去られたアイヌ民族やサヘキといった
天皇にまつろわぬ人々を供養するためではなかったか…と感じたからです。
いつものことながら、手前味噌の社伝などに基づいて行くと
むしろ逆の印象を受けるため、裏をとりに再訪するパターン!?
 
先ずは現 智賀都神社。何度か名称が変わっているそうです。
当社は日光から遷座しており、私がどうしても足を運びたかったのは
伊福部昭先生が戦後一時的に住まわれた久次良町との関連からです。
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当社には巨木が多く、栃木県教育委員会が天然記念物に指定した木もありますが、
樹齢が700年程度という点が引っかかりました。
と言いますのも、当社は宝亀9年(778)日光二荒山神社御神体
千勝森(ちかつのもり)に勧請鎮座したとされているからです。
ならば樹齢1,200年以上の老木があってもよさそうです。
ただ社殿の裏の林が気持ち良かったので、一曲演奏させて頂きました。
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演奏が終わる頃、社殿からお二人の女性神官が出て来られました。
「奉納演奏をして頂き、ありがとうございます」と言われましたので
「御挨拶も申し上げないまま演奏し、失礼しました」とお詫び。
せっかくの機会なので、私が抱いていた疑問を晴らすべく質問させて頂き、
悉くイメージしていた通りの御返答を得られました。
 
私の話が終わると、同行者がすかさず
「ここの元宮が近くにありますよね?」と宮司さんに質問しました。
これが本当なら小躍りしたいほどですが、お返事は「??」。
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同行者とは車を運転して下さっている方ですが、迷わず案内してくれました。
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たしかに「遷宮の碑」と書いてあります。
しかも宮司「外鯨海夫」氏の揮毫。現宮司も「外鯨」姓です。
 
すると、現 徳次郎町が宝亀9年(778)に日光の久次良(久次郎)氏の領地となったのは
勝道上人(735-817)天平神護2年(766)に日光を開山したことで
先住の久次良(久次郎)氏が追い出された格好になった可能性もあります。
日光の久次良氏の外領という意味で外久次良(外久次郎=とくじら)とされた
「徳次郎」は、のちに誤読され、今では「とくじろう」になっています。
 
勝道上人に関する資料は少なく、同時代のものとして、空海(774-835)
勝道上人の依頼で弘仁5年(814)に書いた「勝道碑文」があるそうです。
真言宗の開祖 空海弘仁11年(820)に日光で滝尾権現と寂光権現を祀ったとも
伝えられており、このとき「二荒」を「日光」に改めたとの説があります。
 
その空海が開基した山本不動尊が今日の最終目的地です。
そこで、宇都宮ICから白河ICまで高速に乗りました。
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高速から撮った那須岳です。
先ずは白河市表郷の都々古和氣神社へ向かいます。
 
前回1/5、『延喜式神名帳陸奥国白河郡に「都都古和氣神社 名神大」と
記載された式内社(名神大社)の論社を素通りしてしまいました。
福島県東白川郡棚倉町陸奥国一之宮馬場都々古別神社八槻都々古別神社です。
その元宮とされる白河市表郷三森の建鉾山都々古和氣神社があります。
さらにその西方にも同名の都々古和氣神社が。
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約200段の石段を登って周囲を見ると、きれいな円錐形になっていました。
もしかすると人工的に盛られたのかもしれません。
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円錐形の上部がほんのわずかな円形の平地になっていて、
社殿の周囲に置かれた石祠の向こうは急斜面です。
古代、神降ろしをした場所が山の円形の平地だったという説を聞いたことが
ありますが、そのミニ版といった印象を受けました。
 
次は、前回登ることを断念した建鉾山
こちらは人工的な小山ではなく、岩盤を利用して古代祭祀が行われていたとか。
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暗くておどろおどろしい雰囲気だったので、前回はこの辺で引き返しました。
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直角に曲がると社殿らしきものが見えてきました。
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いや、しかし、ここには座れません。
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左手に道標があったので進んでみることに。
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道なき道でした。これが「遊歩道」とは…。
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このあたりは「遊歩道」と言えなくはありませんね。
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山頂に着いたら「402m」と書かれていて驚きました。
登っていてそんなに高いという印象はありませんでした。
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これが「立鉾石」と称する磐座ですか…。
ここから北の斜面がずっと岩盤らしいです。
古墳時代(5世紀)の東北地方有数の祭祀遺跡なのだそうです。
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「立鉾石」の隣で演奏してます。後ろは断崖絶壁!? ですが。
こののち岩や草木に手をつきながら、何とか滑り落ちずに下山できました!
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山頂で「建鉾山」の文字を見て初めて
「盾」と「鉾」だから物部の本拠地の一つだったのかもと感じました。
日本武尊の「東夷」征討伝説から「武鉾山」の表記があるのかもしれませんが、
佐竹の金山たる八溝山にも近く、古代から鉱山に関わる人々がいたと思われます。
 
地元では、「東夷」を平定した日本武尊建鉾山に鉾を建てて
三森に都都古和氣神を祀った後、第五十一代 平城天皇の御代
大同2年(807)征夷大将軍 坂上田村麻呂伊野荘(現在の棚倉城)
都都古和氣神を奉遷したと言われています。
 
ここには日本武尊の名に象徴させたヤマト王権が誕生する以前から
東夷」が居たわけですね。そうなると、大量の血が流れたと考えられます。
それが「空海が130段の護摩壇を刻んだ」と言われる山本不動尊
創建につながったと考えるのはさほど不自然ではないと思うのですが?
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再びやってきました山本不動尊。本堂の横から見た奥の院です。
ここから空中をゆけるとよいのですが。
いったん左手の階段を下り、久慈川の源流を渡って護摩壇の下まで行きます。
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気合を入れて昇りました。
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岩盤なので、声もコトもよく響きます。
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初めて「神送り」の段を演奏してみる場所として選んだ甲斐がありました。
やはり岩盤での演奏は最高です。今回は30分だけでしたが。
寒いのでセーターの上に麻の貫頭衣を被って着ぶくれてます!!
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気がつけば、結局またしても陸奥国一之宮の論社たる2社を素通りしてました。