藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

常陸国の海人族

前回3/4の宿題は
息栖(いきす)神社が祭神を久那斗神・天乃鳥船神・住吉三神としながら
「『三代実録』にある於岐都説(おきつせ)が現在の息栖神社」で
於岐都説於岐都州沖洲で、息栖になった」と
書いている矛盾をどう考えるのかということでした。
 
そればかりか、息栖神社のHPには何の根拠も示さず、
「久那斗神と天乃鳥船神は海辺の日川(現在の神栖市日川)に姿を留め、やがて
応神朝になって神社として祀られたと思われます」とありました。
息栖神社跡地」として石塚運動広場の一角には石碑が建てられています。
 
息栖神社の前身は本当に於岐都説神だったのでしょうか?

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ヤマト王権の代表的な軍神(いくさがみ)たる鹿島香取
タッグを組んだ息栖神社於岐都説(おきつせ)を名乗っている点に関しては
3/4に行った日川(にっかわ)鎮座の蠶靈(さんれい)神社がヒントになるかもしれません。
 
とは申せ、"金色姫伝説"の普及には上垣守国著の『養蚕秘録』(1802)
深く関わっているため、885年に「従五位下」を授かった於岐都説神とは
年代的にかけ離れていることを念頭に置く必要があります。
 
常陸国には「三蚕神社」というものがあって、
筑波山蚕影(こかげ)神社、日川の蠺霊(さんれい)神社のほか
日立市川尻町の蚕養(こかい)神社にも"金色姫伝説"があるそうです。
その蚕養神社が、かつて於岐都説神社と呼ばれていたというのです!!
「おくつ」とルビを振られた資料もあったそうで、
「息長」氏が「おきなが」氏と呼ばれるのなら
「息栖」神社が「おきす」神社と呼ばれてもおかしくはありません。
 
蚕養神社の現在の祭神は
稚産霊(わくむすび)命・宇気母智(うけもち)命・事代主命
日川の蠶靈神社の祭神は宇気母智命と同神とされる大気津比売でしたね。
"金色姫伝説"は後付けだとしても、
「三蚕神社」と於岐都説神には接点があったのかも?
 
於岐都説神息栖神社の謎を解明するには
行方市沖洲の於岐都説神社へ行ってみなくてはならないでしょう。
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国道355号線を走っていたら、霞ヶ浦の反対側に小さな社叢と
「農道沖洲←玉造町」の標識がありました。
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於岐都説神社の立地にビックリ!? 国道建設に合わせて移転させられたのかな?
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霞ヶ浦…というくらいで霞んでいますが、筑波山が見えました。
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さて、問題は↑コレです。「式外(しきげ)官社」とは何ぞや?
延長5年(927)に成立した『延喜式(えんぎしき)(50巻)の巻9「神名上」、巻10「神名下」
記載の官社3,132座(2,861社)式内社と呼び、それ以外を式外社と呼ぶことがあります。
 
ただし於岐都説神社は、式外社とはいえ、『三大実録』に
記録された(六国史記載の)"国史見在社"です。
それを当地を訪れた水戸光圀が認めたため「官社」としたらしい…。
明治の神仏分離令につながる寺社改革を積極的に行なった御老公ゆえ、
常陸国には祭神や社名、鎮座地などを変えられた神社が非常に多いのです。
 
実際に行方市於岐都説神社を訪れた印象としては、
天長7年(830)から於岐都説神としてずっと鎮座地を変えていないとは考えにくい…。
津神社などと同じで、岸辺の守りとしてあちこちに鎮座していたのでは?
 
要するに、日川にも於岐都説神が鎮座していたと私は妄想しているのです。
と言いますのも、行方市沖洲は霞ヶ浦の北辺なので、
常陸国の守りとしては四番手五番手の位置としか思えません。
その点、日川は、霞ヶ浦どころか「香取海」への入り口、最前線です。
 
しかも日川には鹿島神宮の南の一之鳥居があったというのです。
東の一之鳥居は明石浜鳥居、西の一之鳥居は鰐川の縁の大船津、
北の一之鳥居は浜津賀の戸隠神社に復元されていました。
 
於岐都説神が「従五位下」を授かったのは
朝廷が征夷大将軍を任命してまで臨んだ東国征伐の軍隊たる
鹿島神香取神とタッグを組んだためではなかったでしょうか?
皇軍の一員として祭神に久那斗神・天乃鳥船神・住吉三神を戴いて
息栖神社を造営し、最前線にあった於岐都説神=息栖神社だからこそ
従五位下」を授かることになったのでしょう。
よって、私は日川(にっかわ)於岐都説神=息栖神社説をとりたく思います。
 
ちなみに、沖洲の於岐都説神社の祭神は
官製スター勢揃いの豪華さでした。
 
そして、沖洲の於岐都説神社から900mほどの距離には蚕影神社が!?
おそらく筑波の蚕影(こかげ)神社からの勧請でしょう。
日川でも、「息栖神社跡地」が於岐都説神だとしたら、
1.6m離れた場所に蠶靈神社がありました。
そして日立の蚕養神社於岐都説神社とも呼ばれていたということは、
蚕神と於岐都説神の間にセットで扱われる"何か"があるのでしょう。
これは、まだ、皆目見当がつきません…。が、
日立の蚕養神社於岐都説神社と呼ばれていたとしたら
沖洲の於岐都説神社蚕影神社、日川の於岐都説神蠶靈神社
もともと同じ社から分かれた可能性も捨てきれません。
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一本奥の道へ入って蚕影神社に近づくと石祠だけになっていました。
そして於岐都説神社蚕影神社の中間地点に三昧塚古墳
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蚕影神社まで行って、ぐるっと三昧塚古墳まで戻りながら↓撮りました。
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古墳越しに筑波山が撮れましたが、全体像がわからないため画像をお借りしました。
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「沖洲」は、東が「玉造」、西が「小川」で、周辺に素鵞神社があることから
九州から大和へ進出し、杵島ぶりの歌舞を嗜むスカ・ソカ・サカの民の
本拠地の一つだったと想像されます。
 
今日はまた、以前素通りしてしまった「玉造」が、
今年1/13にスカ・ソカ地名だとわかったので行ってみることに。
 
往路は、6号線を避けて北上し、48号線から右折して354号線を通り、
霞ヶ浦大橋を渡って行方市へ行くことに。
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かすみがうら市を通ってます。私は景色を見ながらのんびり走ってますが、
霞ヶ浦大橋を渡るのが目的の車が多いので、大型車も一目散に走っている感じ。
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やっと霞ヶ浦大橋の西端まで来ました。
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車が空いていれば橋の上で撮れるのですが、周囲が殺気立っているので無理…。
先に筑波山を撮りました。が、朧げにしか見えません。
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霞ヶ浦ふれあいランドのシンボルタワー、高さ60mの"虹の塔"です。ここから
「玉造」。恐らくスカ・ソカ氏の拠点だったと思われる大宮神社を目指します。
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あまりにも町並みにマッチした建物だったので通り過ぎたものの、
大宮神社の帰りに撮りました。県指定文化財「大山守大塲家郷士屋敷」です。
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大宮神社は拝殿建て替え中でした。往時の姿を窺い知る由もありません。
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ゲゲゲ!? 何ですか↑これは!!
間違いを指摘する氏子さんが居られないのは仕方がないとしても
神職として恥ずかしくないのでしょうか?
上皇陛下はまだ御存命です。亡くならない限り「○○天皇」と
呼んだり書いたりしないという"常識"を知らないとは…。
もしかして、墓石の場合、生きている間は赤字で刻んでおく場合があるため
何宗か知りませんけど、それを真似ているのでしょうか? 
しかし天皇に関しては、赤字でも何でも記述しないのが"常識"です。
これでは何を質問しても始まりませんね(無人でしたが…)
ぐるっと一周したら、こんな案内板がありました。
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今まで気にも留めてませんでしたが、「鰐口」って海人族っぽい名前ですね。
 
ここ「玉造」からは「沖洲」を経て、その名も海士部(あまべ)神社へ向かいました。
今回わざわざ涸沼(ひぬま)まで行く気になったのは、
Google Map に「海土部神社」として載っていたからです。
以前、佐久市跡部安土倍神社へ行ったことがあり、
同じ「あどべ」の発音かと思い込んだ次第です。
 
「沖洲」から海士部神社のある「海老沢」へは30分ほどと出ました。
ナビ任せで北上し始めるとすぐに鹿嶋神社がありました。
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常陸国鹿島香取皇軍に平らげられたため鹿島神社香取神社だらけです。
オセロゲームの駒のように白から黒へ? 社名や祭神が書き替えられたのでしょう。
当社は「御祭神は武甕槌大神。鹿島の大神東海より霞ヶ浦に入り、園部川を遡って
馬場村の金輪田に来臨」とあるように、皇軍鹿島神に駆逐されたようです。
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12分後に見えた鹿島神社。扁額は「鹿嶋大明神」でした。
行方から北上する今日のコースは、まるで鹿島香取軍の討伐ルートみたいですね…。
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10分後、突然れんげ畑が目に飛び込んできました! 懐かしいですね…。
小学生の頃は、下校途中に近所のれんげ畑に寝転んで宿題をやっていました。
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さらに10分ほど走って二股を台地の方へ進みました。
よって、畑の向こうは崖。ここはかつての「阿多可奈湖」との境界です。
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1分後、「分岐を右方向です」とナビに言われました!?
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進行方向に石灯籠らしきものが見えています。何とか到着できたみたいです。
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ちょっと見たことのない社頭です。社殿までが遠い…。
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由緒書きがあり、表記が「海士部神社」だったとわかりました。
しかも、江戸時代までは鹿島神社と称していたけれど、
水戸光圀公が地名をとって「海士部神社」にするよう命じたとか。
海人族の拠点だったことが裏付けられてますね。
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参道と並行して走れる農道があったので奥まで行ってみました。
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勝手ながら農道に停めさせて頂き、横から参道に入りました。
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おおお…木漏れ日が爆発!? しています。
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いつものように、ぐるりと一周して演奏修行させて頂きました。
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では再び涸沼を目指して走りましょう。
この台地から下りる途中に、地図にない駒形神社
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坂を下り切ったところに、やはり地図にない素鵞神社
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1/7に須賀神社をまわった時、低い海岸線に鎮座していたことに驚きましたが、
ここも「阿多可奈湖」の湖畔ではないかと思われます。
少し進むと、かつての「阿多可奈湖」を思わせる風景。向こうが涸沼なのでしょう。
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この先、涸沼川を渡る際、右手にきれいな涸沼が見えましたが、車が多く撮影できませんでした。
逆光でない涸沼を撮れる唯一のチャンスだったのに、残念です…。
神塚神社までの道に気になる神社がありました。
香取神社・素鵞神社と名称が併記されていて、由来の石碑も別々にあるのです。
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しかも細い路地の奥にあって、なかなか見つかりませんでした。
いったん香取神社になったものの、素鵞神社を再興したようです。
こうした例は、全国各地で見られ、一々検証していたら人生が終わってしまいます!?
次は涸沼へ向かう四つ角にある息栖神社です。
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あれ? どちらも八坂神社ですよ…。Google Map どうなってるんでしょう?
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ちょうどここを左折したので八坂神社に隣接する鳥居を見られました。
あの2つの祠が息栖神社ってことですか?
 
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神塚神社まではあと数分。息栖神社からの道の反対側に鷹房神社
下総国高房神社と同じく、祭神は「建葉槌命」。
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この先を右折したら神塚神社です。
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道路脇の椎の巨木。これが当社の目印です。
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そして拝殿前に立って右を見ると怪しいこんもり…。ぐるっと一周してみましょう。
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裏から見ると、まさに蜘蛛窟。これを「神塚」として祀ったのでは?
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ほんとうのところは知りようがありませんが、この意味不明な由緒。
武甕槌命が立ち寄ったのち祭神が変わったのでは?
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奥を見ると、一段低い台地がかつての「阿多可奈湖」、その先
かなり下ったところに現在の涸沼があるという感じがします。
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涸沼に向かって下りてゆきます。
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返す返すも涸沼川から撮っておかなかったことが悔やまれました。
このとき16:33。先を急ぎます。
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高台に戻り、交差点で信号待ちしていたら、この光景!!
地図を見たら、茨城県農業大学校でした。
住所が「長岡」なので、目指す高岡大明神に近づいています。
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このままバイクで入ってしまいましょう。
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反対側が社頭でした。裏参道から入ったわけですね。
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ぐるりと回ると、本殿に向かって左側は一段低くなっていました。
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せっかく茨城町まで来たので、あと一社素鵞神社に立ち寄りました。
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高速道路の高架下から見えました。長い参道をもつ神社です。
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下総国ともども常陸国にもソガ・スガの痕跡が見られました。
ここから約2時間、ずうっと6号線で南下するのが本当に憂鬱です。
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またまた長くなりましたが、筑波山で方角を確かめながら走れて楽しめました。
今日も、ありがとうございました。