藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

筑波郡伊奈村

昨日の続きです。またしても天気予報が外れ、曇りのはずが晴れでした。
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2/24にアーニャと来た足高城址(城中字八幡山)の土塁です。
 
ここから北北西に600mほど進むと鹿島神社(東栗山)があるはず。
つくばみらい市のHP(伊奈地区埋蔵文化財一覧)によれば
東栗山貝塚(東栗山字西宮前)東栗山南貝塚(東栗山字東宮前)がありますが、
字名では場所を検索できないため、取りあえず鹿島神社を目指します。
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いや、しかし、近くまで来て↑あそこじゃないかと思うものの道がありません。
人様の家の脇から入り、農道(私道?)を行くほかなさそうです。
周囲を何周したか知れませんが、この台地の下からあがってくる
参道のような道は、ここしかありませんでした!?
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これは、一人(一列)で登ってくるのがやっとの道幅でしょう。
ここを上がってくると、まず第六天の社があります。
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初っ端から強烈なパンチですね~。またしてもヒンドゥー教シヴァ派の神ですか。
第六天と言えば、織田信長
武田信玄からの書状に「天台座主沙門」と署名があったのに対抗し
信長自ら仏教界の天敵である第六天の長「第六天魔王」を名乗って
返書をしたことはよく知られています。
しかし、私は鹿島神社を訪ねて来たんですよ…。
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隣にはたしかに鹿島神社がありましたが、例の龍蛇の〆縄が切れてました!?
すると、末社ダーキニーが本社よりも崇敬者を集めている場合と同じく
今やヒンドゥーの神たる第六天の方が重視されているのでしょうか?
 
縄文の貝塚のある土地で縄文人の信仰というものを考えるに
世の定説である先祖(祖神)を祀るシンプルな形であったと想像されますし、
私自身も先祖は敬いたいけれど、ヒンドゥーの神を拝みたくはありません。
やはり日本人としては、渡来神の多い現在の神道には違和感がありますね。
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いったん第六天から遠ざかるべく、来た道を戻りました。
左側の斜面の畑が気になっていたからです。
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あれは!? 貝塚じゃありませんか。
遺跡ウォーカーのHPに「現況=耕作地」とありました。
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1960年代に住宅開発が始まるまでの伊奈地区は人口密度が低かったように
言われてますが、貝塚伊奈地区のほぼ全域で発見されているとすれば
縄文時代には人口密度がかなり高かったことになります。
(神生貝塚、小張貝塚、南太田貝塚、足高貝塚、前久保貝塚 etc.)
ここが東栗山貝塚(東栗山字西宮前)なのか東栗山南貝塚(東栗山字東宮前)なのか
わかりませんが、ともかく東栗山で貝塚を見つけました!
 
次は昨日iPadを忘れて不戦敗となった神生(かんの)貝塚を目指します。
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台地の細長い先端(南東)から入って西谷田川(北北西)方面へと縦断し、
昨日の帰途を逆走して神生に向かいました。
私の好きなかつての海岸線を走るコースです。
昨日「神生貝塚の住所は字が前畑なのですが?」とお尋ねした神生の集落に
着きましたが、どうしても香取神社への入り口が見つかりません。
同じ道を行ったり来たりして、やはりこの道しかないと判断しました。
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なんとなく行き止まりっぽいのですが…?
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あれえ~~~!? 想像もしていなかった光景です。
「前畑」って…、見たまんまのネーミングですよね?
とはいえ、地表に貝殻は見えず、きれいに整地されています。
しかし、昨日お尋ねしたお宅から200mも離れていないことにビックリ。
かなり衝撃的な光景だと思うのですが、なぜ神生貝塚を御存知なかったのか?
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はたして鳥居まで辿り着けるでしょうか?
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雨じゃなかったのでバイクで何とか到達できました。
社叢が素晴らしく広くて、社殿が小ぢんまりとしています。
奥の方にも当社への参道がありました。
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やっぱり車が入れない神社の空気は最高ですね…。
轍もなく、きれいに整地された参道に三輪の跡を残して申し訳ありません!
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久々に古代の森の雰囲気の中で《篠波》と《神擧》を練習させて頂きました。
初めて《神擧》をちゃんと演奏できた気がしました。
ふう~~ん、神生の地名は伊達じゃありませんでしたか!?
神生集落のもっとも大切な場所を知らしめるために神社を置いたのでは?
と感じました(常陸国なのでお約束通り香取か鹿島が被っているものの)。
 
こののちも何ヶ所か廻りましたが、この森があまりにステキで
他の場所では演奏する気になりませんでした。
後々のために、ざっと記録のみ残しておきます。
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つくばみらい市久保浄水場です。台地の東端→西端へ移動しました。
この裏手に南太田貝塚があるとのことでしたが、見つけられませんでした。
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このまま西端を北上しますが、道の左側は断崖絶壁で?! 直下に公道が見えました。
南太田貝塚は見つからなかったものの、古道の雰囲気を味わえました。
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しばらく進むと現代の生活を感じる道路へ出ました。
下るとかつての海岸? もちろん台地の西端を北上(直進)しました。
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クネクネ走っていたら、次の目的地浅間神社(つくばみらい市板橋)に着きました。
なぜかつくばみらい市のHP(伊奈地区埋蔵文化財一覧)に記載されていないので
富士山を遥拝する浅間神社を建てるために盛られた「富士塚」の扱いなのかも
しれませんが、ほとんど調べる手立てがないので困り果てます。
 
ここから更に北上して小張(おばり)を目指します。
台地に上がると突然このような竹藪が!?
いかにもここに何かあるぞという雰囲気を漂わせています。
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左手の奥が縄文時代鹿島神社遺跡でした。
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凄く期待して行ったので、この覆屋を見て「へ?」と脱力してしまいました。
いや、社殿が小さいとかいうのではなく、ペンキの色がシュールで!?
今や社叢もなく丸裸にされ、社殿の前は参道ではなく「現況=耕作地」でした。
主な発掘現場は社殿に向かって左手だったようで、地元の方によれば
「昔から茶色い土器の破片が転がっているのをよく見かけた」そうです。
 
それよりも興味をひかれたのが鹿島神社手前の竹藪でした。
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今やゴミ捨て場?! と化しているこのベロ状の台地は何なのでしょう?
先端まで行ってみました。
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あまりにも不思議だったので帰宅してから検索すると、
この奥というか、鹿島神社の奥の「山王台」に小張城の本丸があったらしく、
お堀の名残ではないか…と考えられているそうです。
 
つくばみらい市の遺跡はわからないことだらけ…
私にとっては「つくば古代市」ですが!?