昨日に続き、旧伊奈町の遺跡探しに行きました。
バイクを走らせながら桜を見るというのは最高の贅沢です。
最初に先日見つからなかった野堀古墳を探したのですが…。
地図を頼りにこんな道まで走っても見つかりません。
現況=山林とのことで、あのこんもりの中を走って出てきたわけですが、
地図によれば、たぶんあの中にあるとしか言いようがありません。
次に宮後古墳を目指しますが、手前の不動院が板橋城跡ということでパチリ。
城跡というのに、あまり高さがありませんね…。
ここに匿われていた結城氏が、板橋城の落城に伴い帰農したということで
場所を見ておきたく思いました。
この先を右折し、宮後古墳を目指しますが、見つかりません。
そこで、すぐ北の上街道遺跡(縄文時代)を目指します。
たしかに現況=畑です。
ここを左折して狭い道をどんどん西に走ります。
地図によると、このあたりの畑が縄文時代の東耕地遺跡のようです。
すると宮後古墳がこの画像におさまっている可能性があります。
ともかく、この一帯から縄文~弥生~古墳時代の埋蔵物が発見されているのです。
さらに畑より一段高い道を走っていますと、右手に階段が見えました。
道幅が狭いため階段の下も狭いのですけれど、何とかキャノピーを停めました。
3つ鳥居があって、一の鳥居と三の鳥居の扁額が愛宕神社、
二の鳥居の扁額が読めませんでした。
社殿の扁額が「愛宕宮」だったので篆書体を調べましたが、
三文字目は「宮」でも「堂」でもありませんでした。
しかも最初の字が「愛」の篆書の反転文字…。
伊福部先生が居られれば即座に教えて下さると思うのですけれど…
篆刻の弟子にして頂いたとはいえ、私は先生が恐ろしいほど分厚い
篆書の字体を集めた字引のような書物から選んで下さった文字を
彫っていただけで、全く何の素養もありません。
とはいえ、現在の社名や祭神は縄文時代には存在しなかったわけで
この周囲より一段高い台地が重要視されていたことは疑いようもありません。
「アタゴ」は、アイヌ語の tap kop (タンコブ山)との関連から
小高い丘を「アタゴ山」、小高い場所にある神社を「アタゴ宮」と
呼ぶケースに着目してきた人は少なくないでしょう。
その説を読んで以来、たしかに…と呟く例が幾つもありました。
ここも縄文の遺跡群に囲まれた丘に建つ「愛宕宮」です。
巨大な御神木の根っこですね~。でも私は右奥のこんもりが気になります。
桜の木は後から植えられたものではないでしょうか?
社殿の〆縄は龍蛇をイメージしたもののように見えます。
今日の舞台はこの台地ということで桜を眺めながら演奏修業しました。
最初、うしろの木でウグイスが鳴いていましたが、徐々に
鳴き声の種類が増え、5-6種類×複数の鳥との共演になりました。
演奏が終わってからも桜の枝を飛び交いながら鳴く鳥が数羽いました。
ウグイスの声は演奏が終わると聞こえなくなりましたが。
外での演奏は、風や波や鳥や虫などとの共演が楽しみです。
30分近い共演を了えて次の山王台遺跡(縄文時代)へ向かいます。
バイクでほんの1分ほど走ると見えてきました。
地図上に大きな○があった中央部分へは徒歩でないと近づけません。
やむなく左折すると、昨日貝殻を見つけた鹿島神社縄文遺跡でした。
その線上に山王台遺跡があるのですから、縄文の巨大集落があったこと、
祭祀の中心に tap kop の「アタゴ」があったことを否定するのは
難しいのではないでしょうか?
昨日探した小張(おばり)貝塚もその裏付けとなるでしょう。
2日続けて足を運んだ甲斐あって、やっと地形が頭に入りました。
帰途は少しルートを変えて、南太田へ向かいます。
地図に照らせば、この鮮やかな緑の畑が南太田貝塚のようです。
住所は「南太田字貝塚付」と、そのまんまです。
1分ほど南下すると八幡神社がありました。
ここまできたら同じ台地の奥の戸茂遺跡(縄文時代)へも行ってみることに。
しかし、またしても舗装されていない道を走ることになり不安が…!?
地図によれば、この畑(戸茂字東耕地)が戸茂遺跡のようですね。
左手に畦道があり、地図によれば直進すると抜け道がありました。
でも、遺跡の端っこはガクンと段差があることになってるんですよね…。
ああぁ…やっぱり。ここだけ例外ということはありませんよね。
徒歩なら降りられますが、バイクではとても無理…。
しかも、ここを右折って?! 道なき道でしょ?
やむなく来た道を引き返して台地から下りました。
17:45頃、農道を走っていたら左手に桜が見えてきました。
思わずハンドルを切り行ってみると「さるまい自然公園」と書いてありました。
名前の由来もわかりませんが、地図を見ると足高の下ですから、
かつては沼地だったかもしれません。
本日最後の桜です。