藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

石船神社

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今日は運転免許センターへ行かなくてはならず、
それなら…と羽鳥駅からタクシーに乗りました。
地図でザッと見ただけで、免許センターまでに5社の石船神社があります。
最初の3社は現「小美玉市」に鎮座。
小美玉市」は「小川町」「美野里町」「玉里村」が合併して誕生した地名で
3社とも1956年に誕生した旧「美野里村」にありました。
 
先ずは①寺崎の石船神社
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⒊11のあと、石段と鳥居を修復したようです。
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石船神社といえばニギハヤヒの乗ってきた舟形の巨石があるはず。
周囲を隈なく探しましたが、ありませんでした。
 
では次に期待して②小岩戸の石船神社へ。
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社殿の後ろが一段高くなり、御神木が定められていましたが、
やはり磐船らしき巨岩は見当たりません。
 
またしても空振り…ということで、③西郷地の石舩神社を目指します。
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エッ?! 何ですかコレは? 真っ赤っか…。
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は? 稲荷大明神!? しかも「日本三社」って何ですか?
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社殿に向かって左側に石船神社の祠が…。
地図上には「石舩神社」とあったのに、ダーキニーが祀られていました。
いつ、いかなる理由で祭神が変わったのか、
由緒などは一切わかりませんでした。
まあ、水戸家の寺社改革から見て、常陸国では珍しくない事例と言えます。
…と書いて帰宅後調べたら、大当たりでした、御老公
 
●『三代実録』の貞観16年(874)5月11日に「常陸立野神 飛護念神 出羽矢向神並従五位下」とある。
●元禄9年(1696)5月、水戸光圀の命により刺賀飛護念社(しがひこねしゃ)に先後(まつのち)稲荷明神と十日稲荷を合わせ日本三社稲荷明神と称した。
大正3年(1914)5月6日、村内石上神社を合併し石船神社と改称。
昭和17年(1942)3月、刺賀飛護念の祭神たる大物主命・事代主命・武雷男命の三神が神社明細帳から落ちていたので訂正。
昭和19年(1944)12月、旧石上神社・現石船神社の「石」、刺賀飛護念神の「飛護念」、稲荷神社の「稲荷」を合わせ「石飛護念稲荷神社」と改称願いを出すも、敗戦により立ち消えとなった。
 
しかしながら、現状は光圀公の「日本三社稲荷明神」ですよね?
しかも社殿の裏には「金刀比羅大神」の祠もありました。
何でもかんでも合祀しちゃった感がありますが?
取り敢えず、次を目指します。
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ため池にカモがいたので撮ったら、超イケメンの案山子が⁉
 
物凄く細い農道を走って、④下雨ヶ谷の石船神社へ。
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竹林の奥に石船神社があるようです。
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やはり巨岩はありません…。
 
とうとう最後の一社です。⑤生井沢の石船神社
ここはもうバイクでも無理だろうという畦道でしたが、
勇猛果敢な運転手さんで社殿のある位置まで登って下さいました‼
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小高い台地に鎮座しているのですが?
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左端に見えている落ち葉だらけの道を上がって下さいました!
そして、ここでやっと5社とも巨岩を持っていない理由がわかりました。
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以前、常陸大宮からタクシーで行った石船神社が本社でした。
だから船は↓ここにしかないのです。
 
旧国名で言えば、小美玉市のほぼ全域および東茨城郡茨城町の大部分は
常陸国茨城郡、現東茨城郡城里町鎮座の石船神社も同じ茨城郡でした。
その城里町(旧桂村)岩船(いはふね)にある石船神社
タクシーの運転手さんは「いわぶね」と発音されていましたが、
ネット検索すると「いしふね」と書かれています。
住所と社名の発音が違うとしたら珍しいケースですね。
 
なお、本日行った5社の石船神社は「いしふね」と呼ばれているそうです。
ただし③西郷地の「日本三社稲荷大明神」は城里町石船神社とは無関係。
②小岩戸の石船神社城里町石船神社より分霊(1504年以降)。
⑤生井沢の石船神社城里町石船神社より元和2年(1616)に分霊。
④下雨ヶ谷の石船神社には由緒書がなく、平成7年8月15日に建てられた
大東亜戦争戦没者慰霊碑」の石碑しかありませんでした。
その台座に洲浜紋に似た紋が彫られており、洲浜紋なら、
常陸南朝方の雄として常陸北朝方の佐竹氏と対立していた
小田氏(藤原北家宇都宮庶流)が使っていましたが、
当社の紋は完全な洲浜ではなくアレンジされていました。
そして最初に行った①寺崎の石船神社は由緒がわからぬまま…。
 
こんなことでは行った意味があったのかどうか疑問ですが、ともかく
タクシーの運転手さんが良い方で、免許センターで3時間待って下さいました。
これから大洗、阿字ヶ浦へ向かいます!