藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

霞ヶ浦・浮島

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2/12にこの先の潮来・鹿嶋まで行きました。
常陸国風土記』にある香島郡です。
「東に鹿島灘、西に霞ヶ浦を臨む広い台地」に
「沼尾の池がある。翁曰く、神代に天より流れ来た水がたまって沼となった。
この沼で採れる蓮根は、他では味わえない良い味で、病人が食べると
たちどころに病が癒えるという」とありましたが、
霞ヶ浦を挟んだ西側でも蓮根が栽培されていました。
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もとより上の2枚を撮影した道路がかつての霞ヶ浦
すなわち香取海の一部なのですから、蓮根の栽培に適しているのでしょう。
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初めて鹿島神宮へ行った2012年12月、帰途
真っ暗な道を地図ももたずに走っていたら、ここへ迷い込んでしまいました。
どこまで走っても真っ暗…。人通りも無し…。
ようやく見つけた標識に「浮島」と書かれていました。
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ここからずっと霞ヶ浦沿いに走ったわけですから、
引き返さない限り、自宅へは帰り着けませんでした。
とんでもない方向音痴ですねぇ…。
景色さえ見えていれば、バイクで走ることが大好きなので問題ありませんが。
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野鳥にとっては最高の環境といえる葦原すら見えない
真っ暗な舗装路を走ってただけですから…。
いったい、どこを、どう間違えたのかをチェックしに来ました。
記憶力だけはあるので、走った場所はわかりました。
 
では、現在の「浮島」ではなく、古代香取海に浮かんでいた浮島とは?
これが今日のテーマです。
稲敷市姫宮神社が鎮座する場所が浮島の一つとの情報を得て走っています。
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あれ? 「景行天皇行在所跡」ですって?!
実在が証明できないような天皇に興味はありませんが、こういう場所は
先住民族のトップの墳墓や蜘蛛窟の可能性があるため、素通りはできません。
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おおお…、海辺の極相林の様相を呈しています。
浮島というほどの規模ではありませんし、景行天皇でなくとも
ここに人が住めたかどうかは疑問ですが。
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常陸国風土記』ですら、江戸時代に突然前田家の屋敷で発見され
水戸光圀の手に渡ったという経緯が怪しまれているのに、
風土記逸文』ですからねぇ…。
景行天皇どころか、ヤマトタケルの存在すら証明できない日本神話の
尻馬に乗った作り話として、顔中を唾だらけにして読まねばなりません。
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小さな円墳か蜘蛛窟かという規模のこんもりに上がると
御丁寧に「景行天皇行在所遺址」の碑が建てられています。
せっかく上がって来たのに石碑を見ただけでは馬鹿馬鹿しいので
一番高い場所で一曲だけ演奏修行することに。
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コトを片づけようとした時、目の前を横切るモノを発見!!
「あなた誰ぁれ?」と訊いてみましたが、私の周りを大きく時計回りに
歩き始めました。しかも何か歌っているようです。
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このように嘴を開いた時には、まるでアイヌ民族ムックリ(口琴)のように
弾力のあるビュンビュンというような音を立てています。
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ヤマドリのオスはあまり鳴かないらしいのですが、
ずっとハミングのような下鳴きと、弦を弾くムックリのような音を
一定周期で繰り返しながら歩いています。
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数分でゆっくりと一周して私の目の前に来たら、今度は逆に戻り始めました。
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そうして、最初に姿を見せた石碑の裏を通ってこんもりから下りたのです。
私はこの間に楽器を片づけていたので「もう帰るからね」と伝えました。
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まさか行く手を遮ろうとしているヤマドリがついてくるとは思っていません。
もっと遊びたがっている(歌いたがっている?)かも知れないのに
振り切って帰るのが申し訳なく「ごめんね」と言いつつ下り始めました。
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え? まさか階段を下りるつもり?
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この慣れた様子は…。もしかすると地元では良く知られた存在なのかも?
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うちのアーニャもよくやる下り方です。階段よりも下りやすいのでしょう。
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とうとう下までついてきてしまいました…。
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まだビュンビュンと口琴のような音を立てています。
このピッチが倭琴に近く、よほど神楽歌が気に入ったと見えます。
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しばらくバイクの周囲をまわっていましたが、危ないし先を急いでいるので
エンジンをかけて走り出すと、ヤマドリも走って追いかけてきました!!
心配だったので道路から見ていたら、諦めて繁みの中へ入りました。
 
人生初のヤマドリ(キジ目キジ科ヤマドリ属)との遭遇でした。
キジには何度も会っていますが、今はヤマドリに会う方が難しいそうです。
人工繁殖していることも初めて知りました。
また、ヤマドリといえば母衣打ちが有名らしいのですが、
それは翼を強く羽ばたかせて出す音で、私が見たヤマドリは
一度も羽ばたいたりせず口を開閉させて音色を変えていました。
う~~む、もしかすると新発見かも?!
(帰宅した家人に「録音すればよかったのに」と言われましたが、
家人と違い、私はそんな装備では出掛けません!!)
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再度、古代の浮島を目指します。
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幹線道路から左折したものの、ナビには農道が出ないので直感だけで
最奥までまわり込みました。あれが古代の浮島ですね!
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鳥居の手前に読みづらい案内板がありました。
どうやら明治の一村一社の合祀令で姫宮神社の鎮座地に
龍崎神社遷座させた際、社殿を移設したということのようですが、
それ以前の"孤島"時代に何の祭祀もなかったとは考えられませんよね?
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石段を登るのは大変なので、右の舗装路をバイクで上がってみます。
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急峻なV字です。
左の道をあがってきて、右の坂を登りました。
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たしかに社殿があり、古代祭祀場にふさわしい円形の台地でした。
この浮島が"孤島"だった時代、最高点に祭祀場があったとして、
人々の生活の場はどうなっていたのでしょうか?
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登って来た坂を下り、Vターンせずに直進してみます。
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すぐに開けた農地に出ました。
農道の両側がきちんと耕されています。
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古代の浮島が今もなお生活の場として存在していることに感動…。
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少し走ると橋がありました!
さっき幹線道路を走っていた時、この山と手前の山の2ヶ所に
同じような橋が架かっていて何のための橋だろうと思っていました。
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渡ってみましたが、畑しかなく、恐らく山を切り開いて道路を通す際、
生活の道を確保する約束で橋をかけたのだろうと想像しました。
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再び橋を渡って戻る途中、霞ヶ浦越しに筑波山が見えました。
 
浮島から下りて、霞ヶ浦のラインに沿って西へ進むと
国指定遺跡「広畑貝塚」があります。
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霞ヶ浦とさほど高さが変わらない道路脇の平地にあって驚きました。
これまで行った貝塚はかつての海岸線たる崖をのぼった上にあったので。
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標高1.5mもあるようには感じませんでした。
ここへ来たのは大好きな貝塚だけが目的ではありません。
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空海筑波山へ行ったことは間違いなく、霞ヶ浦を舟で行ったのではないかと
想像していますが、この地に立ち寄った記録を残しておきたかったのかも?
きわめて雑な伝承なので、空海が忘れた杖というのが
何の木で作られたものだったのかすらわかりません。
そして、空海が来たのはいつ?
 
空海が牛久沼の泊崎に立ち寄って座護摩を修め、(現)泊崎大師堂を建てたのが
大同年間(806-810)ということですから、同時期に訪れたものと思われますが。
 
弘法大師逆さ杖」のある場所は現在脇高神社の境内になっています。
「広畑貝塚」に隣接しているため空海が立ち寄ったのかも?
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空海(774-835)の時代は神仏習合ですから、当時は寺院だったかもしれません。
現在が脇高神社ということは香取軍に下ったのでしょうか?
 
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「広畑貝塚」に隣接した道路からも霞ケ浦筑波山が見えました。
古代には恐らく霞ケ浦が目の前まで迫っていたことでしょう。
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小野川を渡って帰途につきます。
やっぱりどこからでも筑波山が見えました。
海人族の生命線とも言える霞ヶ浦と山アテ法ですね。