2020年7月3日にブログ「アヅミノイソラ」を書きました。
その内容があまりにも薄かったので加筆を試みます。
私は倭琴の旅を始めた当初、集中的に対馬へ通いました。
宮廷に入って、平安時代に神楽歌と呼ばれるようになった歌が
「志賀の海人」すなわち安曇・阿曇系統の芸能だったからです。
安曇(あづみ)は阿曇とも書き、海津見(あまつみ)が語源と言われます。
海人部(あまべ)として漁業で生活したり、大陸との交易に力を発揮した豪族。
「志賀の海人」は、早くから文献に登場していました。
綿津見三神は、阿曇連らが祖神として斎く神とあります。
西海の国を見に行った磯鹿(しか)の海人(あま)名草が出てきます。
又遣磯鹿海人名草而令視、數日還之曰「西北有山、帶雲横絚。蓋有国乎。」
磯鹿海人とは、志賀島(しかのしま)を拠点とする海人族のことでしょう。
2009年に阿曇磯和宮司が急逝され、一時的に当主不在となったものの
阿曇族の神社としての血統を御親族が繋いでおられます。
この国で重要なのは、日本神話において天皇家の祖神とされる
アマテラスよりも古いか新しいかにあるような気がします。

力を借りて、三韓征伐に赴きました。
時代が下り、天武天皇は日本列島を治めるために、先住の豪族らに
各民族の「魂」(言霊)を差し出させる必要があると考えました。
『日本書紀』に歌を献上させた国の名が書かれています。
【天武天皇四年】二月乙亥朔癸未、勅大倭・河內・攝津・山背・
選所部百姓之能歌男女及侏儒伎人而貢上。
集成され、宮中で演奏されるようになってゆきました。
そんな歌の一つに、安曇族の精霊を歌った『磯良』があります。
この曲につけられた注釈が『日本古典文学全集』に掲載されていました。
「或説ニ云ハク、此ノ歌ハ貞観ノ神宴之時ニ撰定ノ歌ナリ。
次之日忌諱有ルニ依リテ停止セルト云々。其ノ説未詳」
翌日何らかの変事が起きたのをこの歌のせいにした可能性が疑われるものの
神楽歌『磯良』の歌詞は極めてシンプルで、この歌詞のどこに
演奏を忌むほどの要素があるのかがわからないとの見解でした。
磯良が崎に 鯛(たひ)釣る海人(あま)の 鯛釣る子海人の
我妹子(わぎもこ)がためと 鯛釣る海人の 鯛釣る海人の
『日本三代実録』(901)を見ても問題になりそうな記述はありません。
《卷三貞觀元年(八五九)十一月十六日丁卯》親奉大甞祭。
《卷三貞觀元年(八五九)十一月十七日戊辰》琴歌神宴。終夜歡樂。
《卷三貞觀元年(八五九)十一月十八日己巳》乃主基國奏風俗歌舞。
そもそも歌詞に呪術的要素や破壊力が備わることがあるのでしょうか?
19年前、私は謎解きに着手しようと決めました。
『梁塵秘抄 口伝集』にこうあります。
磯等とうにいたりて同じふりに唱ふものか。
大曲湯立、これ神遊の秘蔵の事なり。秘曲ともなん。
「貞観ノ神宴」で歌われて変事が起きた歌詞として以下を示しました。
伊勢の海 海人の刀祢らが 焚くほのけ
磯良が崎に かをりあふ
「一條院御定之目録」には弓立(ゆだて)として次の歌詞が引かれていました。
伊勢島や あまの刀禰等が 焚く火(ほ)の気(け) 於介(おけ) おけ
たくほのけ 磯等崎に 薫り合ふ おけ おけ
"伊勢島"を採用した『梁塵愚案抄』は"伊勢島"を志摩国とし、志摩は伊勢に属し離れた島であったとする。
「湯立は巫女が神前で行なう儀式で、祭場の中央に設けた竃で熱湯を沸かし、
笹の葉を浸して湯をふりかけ、身を清め、神がかりしたりする。
"たく火(ほ)のけ"とあるので湯立歌に採り入れられたらしい」と説明されていました。
伊勢志摩の 海人の刀禰らが たく火(ほ)のけ おけ(於介) おけ
たく火のけ 磯良が崎に かをりあふ おけ おけ
さまざまな異本があることも、平安時代に風俗(ふぞく)と呼ばれた先住民の歌が
神楽歌や催馬楽として整えられ、宮廷で演奏されていたことを想像させます。
中でも一条天皇の御代に定められた「御神楽(みかぐら)ノ儀」は、
少しずつ形を変えながら、千年後の現在まで伝承されています。
その「御神楽ノ儀」で最も重要な演目は『阿知女作法(あぢめのわざ)』で
歌詞は"あぢめ おけ"のみ。『梁塵秘抄口伝集』にこうあります。
諸社國々行處、阿知女於介、是なん神楽根本神語也。
「あぢめ=あちめ=阿知女」には諸説ありますが、
海人族を統率した安曇氏の斎く海底の神(精霊)たる「安曇磯良」というのが
定説で、「阿度部(あとべの・あどめの)磯良」とも呼ばれていました。
「あどめ」の発音は、海に潜る安曇族が歌舞伎役者の隈取りのような
入れ墨を目に施していたことの暗示とも言われています。
以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・
のちに「阿知女」は「女」なので「アメノウヅメ」とする説が
唱えられましたが、「め」は甲類が「売・見・女・馬・咩・妻・面」、
乙類が「米・目・将・梅・眼・雨・晩・迷・息・昧」で、
「女」=女性名詞ということにはなりません。
ちなみに「男」の場合、万葉仮名では「お」に「於・意・憶・應」、
「を」に「男・乎・小・緒・矣・遠・尾・呼・雄・麻・袁・越・怨」
が当てられており、男女の性別を表わすものではないとわかります。
古代の漢字は、意味で解釈せず、発音記号として捉えるのが大前提です。
従って「アメノウヅメ」説には根拠がなく、歌舞伎役者の隈取りのような
入れ墨を施した目を意味する「あどめ」=安曇と考えるのが自然でしょう。
地名としての安曇は、渥美半島の「あつみ」や「あつうみ」たる「熱海(あたみ)」、
古代海人族の頭領とも言える安曇氏の精霊を謳った"あぢめ おけ"も
"あぢめ おけ"を『阿知女作法(あぢめのわざ)』として神楽歌に採り入れたのでした。
志賀海神社の祭神であることが明記されています。
顔にアワビやカキがついていて醜いことを恥じて現われなかったため、
住吉神が海中に舞台を構えて磯良が好む歌舞を奏すると磯良が現われ、
龍宮から借り受けた潮を操る霊力を持つ潮盈珠・潮乾珠を神功皇后に
志賀海神社の山誉祭では、現在も「磯良舞=細男(せいのう)舞」が行なわれ、
福岡県の有形民俗文化財に指定されています。
その「磯良舞」が宮廷の御神楽(みかぐら)へ入ったのは
奈良朝以前のことではなかったかと西田長男博士は書いています。
度羅楽六十二人。諸県舞八人。筑紫舞廿人。」の記述も重要でしょう。
渡来の歌舞の担い手が主体になっていたことが記録されています。
中でも度羅楽の人数が62人とダントツながら「度羅」の詳細は不明です。
度羅楽の中の『婆理舞』から、度羅国をインドネシアのバリ島地方とする説、
かつて西域地方にあった吐火羅(とから)とする説などがあるそうです。
62人と圧倒的に人数が多いため、近場の済州島説が有力でしょうか?
いずれにせよ、渡来系139人に対し、諸県舞は8人?
すると、「筑紫舞」の20人は小さくない勢力と言えますね。
そして、西田博士の言うように「磯良舞」が奈良朝以前に宮中に入っていた
としたら「筑紫舞=磯良舞」の担い手は志賀の海人で間違いないでしょう。
変事が起こったとの注釈は、私が神楽歌を学び始めた当初から
気になっていた出来事でした。言霊に、そこまでの威力があるのか?
山誉祭で行なわれる「磯良舞」に着目せざるを得ませんでした。
宮中の神楽歌に人々を震え上がらせるような歌詞は見当たりません。
しかし、「山誉歌」の最終行で私は凍りつきました。
いるかよ いるか 汐早(しはや)のいるか 磯良崎(いそらがさき)に 鯛釣るおきな
"いるか"の歌詞を見た私は、何の根拠もなく、蘇我入鹿を連想しました。
もちろんこの歌詞は蘇我入鹿が生まれる遥か昔から歌われています。
仲間に引き入れた上、あとで義父に謀反の疑いをかけて自害させています。
父の石川麻呂が謀反の密告によって自害させられた遠智娘は、一連の事件が
夫の陰謀であるとの疑いから精神を病み、そんな母を見て育った大田皇女と
同じく天武天皇に嫁した大田皇女と鸕野讚良皇女でしたが、大田皇女は早世。
実の姉の遺児 大津皇子を謀反の疑いで葬り去った黒幕との説が有力です。
そこまでして、皇太子となった実子 草壁皇子の地位を安泰にしたかった
鸕野讚良ですが、689年4月、草壁皇子は27歳で病没してしまいました。
その後の歴史が示すように、幼少期に海部一族の伴造(とものみやつこ)
女性天皇が集中していた時代でした。
"いるかよ いるか"の歌詞に接して、歴史オンチの私ですら
風俗(ふぞく)歌として「磯良舞」の「山誉歌」が奉奏され、宮中の人々が
"いるか"の歌詞を聞いたとしたら、震え上がったのではないでしょうか。
これは、倭琴の旅を続けつつ私なりに得た実感です。
『三代実録』にも記録されていない以上、ほんとうのところは
知りようがありません。妄想するのみです。

平安貴族にとって思い出したくない時代になってしまいました。
生後8ヶ月で皇太子となり、天安2年(858)に僅か8歳で即位した清和天皇は
大規模災害に見舞われた天皇としての責任を取るかのように、突如
元慶3年(879) 5月に出家し、その年の10月より畿内巡幸の旅に入って
絶食を伴なう激しい苦行を行なった結果、病を得て31歳で崩御。
他方、阿曇氏は、長く天皇の食事を司る内膳奉膳をつとめていましたが、
桓武天皇の御代(781-806)にその職を断絶させられていました。
こうした負の歴史を思い起こさせるがゆえに、『磯良前(いそらがさき)』は
宮中祭祀に用いることを忌諱されたのかもしれませんね。
……………
ここまで整理したことで見えてきたものがあります。
昔ものの本に「神は神の存在を信じる人にのみ居る」と書かれていて
それなら私には神は居ないんだと思いました。
私は、信じていても信じていなくても存在するものに興味があります。
日本語のうたを歌う以上、日本語発音の変遷はおさえておきたいし、
古代歌謡の楽譜があるのなら、読んで、歌えるようになりたい!
そんな興味から古代歌謡の勉強を始め、演奏修行を続ける中で、古代の人々が
恐れ、大切に扱ってきた「言霊」には威力があるのかとの疑問が生じました。
いま私が言えるのは、神楽歌の音楽に馴染みがなくても、日本語を理解し、
日本の古代史に興味を持っている人なら、もしかすると、発せられた
「言霊」に触発されたり、癒されたりするのかもしれないということです。
たまにタクシーの運転手さんに
「初めて聴く音楽なのに、凄く懐かしい気持ちになりました」
と言われることがあって驚きます。
私が鈍感すぎるのかどうか、もはや海人族という言葉すら
通じなくなった日本人に「言霊」が威力を発揮するとは思えません。
ならば神楽歌をうたうこと自体、無意味なのかもしれませんが、
たしかにそういう音楽があったことを体験しています。