藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

神遊び

およそ"霊感"みたいなものを持ち合わせていない私。
それゆえ演奏においても、ただ真面目に楽譜通り、指導されたままを
忠実に再現することを心がけてこの年まで生きてきました。
それなのに、1年に1度か2度、いつものように朝までパソコンに
向かったのち眠ろうとしても全く眠れなくて、調べたら
夏至」か「冬至」だったということがあるんですね…。
それが今朝だったわけです。
 
折りしも、昨日、神楽歌の楽譜を新調し、メリスマの歌い方を変えたばかり。
それがどう響くかを試してみるのもいいか…と思い、出かけることにしました。
思いついたのは朝7時頃でしたが、日中は暑すぎるので夕方6時に出発。
きれいに田植えが完了しています。
右手にみえるのは岡台地の先端に造営された「大日山古墳」でしょうか。
以前、頭頂部の岡神社で演奏修行しました。
「大日山古墳」の手前の小さなこんもりは「仏島山古墳」です。
この先が「岡堰」。このあたりは「相馬小次郎」たる将門さまゆかりの地です。
現住所は「茨城県取手市岡」ですが、ここは常陸国でしょうか?
平将門国王神社がある「坂東市岩井」が常陸国であることは間違いないけれど
取手市寺田」に相馬惣代八幡宮(守谷城主の相馬家の氏神ゆえ明治までは守谷市飛地)
あるので、下総国相馬郡だったのではないかと思います。
 
千葉県管下の下総国のうち利根川以北の区域が茨城県に移管されたのは
明治8年(1875)5月7日の新治県廃止に伴う茨城県・千葉県の再編の時(1878)でした。
現在福島県にある相馬郡は、中世に下総国相馬郡より起こった千葉氏の一族
相馬氏に由来するそうです。相馬氏第2代の相馬義胤が軍功によって
陸奥国行方郡(現在の福島県南相馬市および飯舘村)に地頭職を得たため。
 
「岡堰」は帰りに立ち寄るとして、手前を左折して香取八坂神社を探します。
どこで演奏しても構わないのですが、このダブルネームを地図で見て釘づけになりました。
あ、恐らくあそこでしょう。路駐は憚られるため、バイクで入ってよいか訊いてみます。
あっさりと「バイクで入ってもかまいませんよ」と仰っていただきました。
本殿の手前に先住らしき社がありました。
こうしたこんもりを見ると、どうしても蜘蛛窟ではないかと妄想してしまいます。
何の由緒書きもありませんが、ずいぶん鬱蒼とした社叢です。
香取や八坂の神が誕生する前から、ここに鎮座していた神、
それを斎く人々と氏族の移動についてのヒントを求めて歩いています。
この巨木は、人々の陣取り合戦をじっと見てきたんでしょうね。
演奏していると、鶯はもちろんのこと、どんどん鳥が増えてきて
歌に和して鳴いてくれます。初めて聞く声もありました。
また、風で社叢がザワザワと鳴り始めたと思ったら、
一気にスコールのような大音量になったのには驚きました。
雨なんて降っていないのですから!?
社叢から出たら、19:00。ピッタリ日没時刻でした。
小貝川の土手へ向かうと、遠く筑波山が見えました。
ナビを無視し、何とか土手へ上がろうとガタガタ道を走ってきました。
農道をクネクネ走ったら「岡堰」が見える位置まで来られて良かった!!
ここは以前演奏修行をした「岡堰水神岬公園」です。
土手から下りる前に、今日最後の1枚「茨城百景 岡堰」を撮りました。
中央が「岡堰水神岬公園」です。
短時間ながら、収穫の多い演奏修行でした!
 
宮中の御神楽に関して『楽家録』(1690)に「一條院御定之目録」が載っています。
その「雑歌之部」の『弓立(ユダテ)』に「此曲尋常不歌 為大曲」の付記がありました。
いせしま(伊勢島)や  あまのとねら(刀禰等)が  た(焚)くほ(火)のけ(気)  おけ(於介)  おけ
(焚)くほ(火)のけ(気)  いそらがさき(磯等崎)に  かほり(薫)(合)ふ  おけ(於介)  おけ
 
他方、『日本古典文学全集「神楽歌・催馬楽梁塵秘抄閑吟集」』(小学館/1976)には
湯立(ゆだてのうた)』「但し、神宝挙ぐる時、此の歌唱ふ。琴の懸け様替へる」とあります。
    【本】伊勢志摩の  海人の刀禰らが  たく火(ほ)のけ  おけ(於介)  おけ
    【末】たく火(ほ)のけ  磯良が崎に  かをりあふ  おけ(於介)  おけ
(本方と末方に分けたのは御神楽の儀が夕方篝火を焚いてから朝鳥が鳴くまでと長丁場ゆえ交替で休むためかと…)
なお、注釈に、重種(八俣部重種)本に【本】「伊勢島に  海人乙女らが  たく火のけ
【末】「たく火のけ  磯良が崎に  かをりあひたり」とあり、もとは明らかに
海女の生活を詠み込んだ民謡で、流木や藻屑をたいている場面とありました。
 
上の注釈を読むにつけ、古代歌謡を楽しむのに、国家公務員でもない私が
明治以降のきまりに縛られる必要などなく、むしろ歌本来の姿に思いを馳せて
古代海人族の生き生きとした暮らしぶりを彷彿とさせる演奏を
目指すべきではないか…と、19年目にして覚醒した次第です。
 
便宜的に決められたメリスマの歌い方にも疑問を感じていました。
御神楽の儀において大勢の楽師が一斉に声を揃えて歌うための決め事は
必要だと思いますが、古代海人族が小舟の上で歌を口遊んだとき、
古代人が円形祭祀場の真ん中で神下ろしや神挙げを行なった時、
鳥の囀りにヒントを得たと伝わるメリスマを常に同じリズムで単調に
歌ったりはしなかっただろうと鳥の声を聴くにつけ嘆息していました。
やっと鳥たちと同じ律動を刻めるようになった今、確信をもって
儀式歌への道ではなく、生活の歌の道を選ぼうと決めました。
 
折口信夫博士は「神楽歌」という言葉が使われ始めたのは平安朝で
それ以前は「神遊び」だったと語っています。
西田長男博士は宮廷の「御神楽」へ「磯良舞」の入ったのは
奈良朝以前のことではなかったかと書いています。
歌も、舞も、九州の「志賀の海人」の芸能が宮中に入っていたのです。
彼らのメロディーが自然界の動物の鳴き声を真似たものであるとの説を
支持する私は、譜面に書かれた「しかさへずる聲」を、牡鹿が雌鹿を呼ぶ
時の強靭な鳴き声と解釈し、墨譜に波線で書きあらわされたメリスマを
鶯の「ケキョケキョケキョ…」という鳴き声の模倣と解釈してきました。
 
鳥たちのメリスマを人が真似て歌うのは超絶技巧ながら、
そうした技巧を駆使しないと古代海人族の歌には近づけないと感じつつ
以前の私の退屈きわまりない演奏を猛省しています。
雌伏19年、やっと打開の刻がきました。