藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

「養老」から「菰野」へ

2月6日に引き続き、神楽歌《薦枕》の舞台の一つであったかもしれない菰野(こもの)へ。
養老温泉に泊まったため、牧田川がお碗形になっている北辺(久々美雄彦神社周辺)へ戻り、
昨日、関ヶ原から来た道365号線に出て南下することにしました。
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養老温泉を出発!
一社目は大垣市上石津町一之瀬鎮座の長彦神社です。
「ナガ」と聞けば足を運ばなくてはならないと徳島県で学習しました。
ところが、ほんの10分余り走っただけで、多良峡に向かう道へ入ったからか
山脈と山脈に挟まれた谷はどんよりと暗い上、雪が解けてない…。
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この、牧田川沿いの道の右手が長彦神社です。
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演奏は無理でも、由緒書くらいは撮影したかったのに、
手荷物を減らそうとブーツを処分したため入れません。
第一、今日は晴れの予報だったのに…小雪(降水量1mm/h未満)がちらついています。
そこで、予定を端折ってどんどん南下してゆくと、次第に
霙まじりの天気になり、烏帽子岳藤原岳などが靄って見えなくなりました。
 
員弁(いなべ)川を渡ると多賀方面からの306号線と合流。
三岐鉄道三岐線や「西藤原」「東藤原」といった駅名に興味がわいて
急遽、藤原岳(1,144m)登山口のある神武神社へ行ってみることに。
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さっきまでの悪天候が嘘のようです。
今日は登山客が多いようで、駐車場はすでに満杯。
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早朝から登られたのか、鳥居右の登山道から下りて来られる方もありました。
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初代天皇の名を冠しているわりには小ぢんまりとした造りでした。
 
この周辺には、藤原氏だけでなく、カモ氏やオホ氏も来ていたかもしれません。
いなべ市北勢町垣内(かいと)賀毛神社がありました。
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「ガモ」とか「カゲ」じゃないよね?「カモ」でしょ? ということで立ち寄りました。
「カモウ」なんてルビもありましたが? ↓かつては治田(はった)郷!?
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境内から出土した「石器等 種々の考古学的遺物」が開化天皇の皇子に関係していると
考える方はまずおられないでしょう。
 
しかも南へ直線で1.65kmの大安町(だいあんちょう)丹生川上(にゅうがわかみ)には鴨神社?!
もしかして京都の上賀茂下鴨を模倣しようとしたとか?
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ずいぶん外観が整ってますね。右手奥に見えるのは藤原岳↓?
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向かって左手に、境内社がいくつか鎮座していました。
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基本的に市街地の神社には興味が湧かないのですけれど、至近距離に
伊勢国員弁郡延喜式内社10社のうち、2社のカモ神社があったので。
そしてここまでの3社は藤原岳御神体山としているような…?
 
次は当社から南西に1.2kmの高台 大安町石榑(いしぐれ)北にある石加神社です。
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やっぱり台地のテッペンだと古代祭祀のイメージが湧きますね。
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ただ、このあたりは難読地名が多く、社名の発音にも確信が持てません。当社は
「イシカ」のようですが、私は鳥羽市石鏡町の石鏡(いじか)神社との関連を疑って来ました。
員弁郡郷土資料』に
「村社石加神社大字石榑北北城にある村社にして、天照大御神伊邪那岐命
須佐之男命、天兒屋根命、大山津見命、火産霊神、菅原道具公を祭神とす。
神社創立の年月は詳ならず。当神社は牛頭天王と称へ祭神伊邪那岐命を祀りしが、
明治2年(1869)9月権現に鎮座しありし熊野社及び神明社の二社を合せ祀り、
社名を神明社と単称す。(中略) 次に明治42年石榑北村と北山鎮座の社を合祀して
石加神社と改称した」とあるため、
いなべ市大安町石榑北の「イシカ」神社の名称はさほど古くなさそうですが?
 
伊勢国風土記逸文伊勢国の由来の一説として「イシキ」が出てきます。
「伊勢(イセ)」とは、伊勢津彦命が伊賀国穴石神社(旧阿山郡阿山村)に石をもって城を築いた
「石城」の発音「イシキ・イハキ」から転訛したとの伝承があるそうです。
しかも古代の日本語には「シキ・シカ・シコ」のような語尾変化が見られます。
「イシキ→イシカ」という変化がなかったとは言い切れませんね…。
 
さらに南下して、福王神社への登り口 三重郡菰野町田口まで来ました。
正面の山は三池岳(974m)? 仙香山(982m)? 左の大きい山が釈迦ヶ岳(1,091m)
右の雪山は竜ヶ岳(1,099m)、静ヶ岳(1,088m)、銚子岳(1,019m)でしょうか?
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この先を右折すると、2/6に行った福王山(598m)鎮座福王神社の大鳥居です。
2/6の帰宅後、登り口付近にあった穂積神社福王神社に合祀されたとわかり
再訪を決めましたが、この辺りが穂積氏の本拠地だったとは知りませんでした。
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これは…、ずいぶん広い社地だったんですね。
福王神社に合祀されたとはいえ、穂積神社延喜式内社でしたし。
式内社調査報告』には「福王神社飛地境内社」とありました。
この位置から後方を見ると、少し高台にあることがわかります。
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或いは田光川の支流を使った水運の拠点の一つだったかも?
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最初の画像で右奥に見えた山が気になって、ズームで撮ってみました。
もしかすると伊吹山(1,377m)を遥拝していたのかも? と思い、
菰野町から見た伊吹山を検索したら、似た画像がありました(が、違うかも?)
こちらは昨日、米原の手前を走っていた新幹線の車中で録った伊吹山↓。
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伊吹山は各所から見えるし、イブキ信仰は広範囲にわたっていたのかもしれません。
昨日行った伊富岐神を思い出しました。
そんなことを考えていたら、福王山に接頭語の「イ」をつけたら
「イフク」だと気づき、残り4社をやめて再訪してみることに。
(実際に、この日は突風で楽譜が何度も飛び、「イ+吹く+部」たる伊吹神の威力を見せつけられた思いでした。
同じく風の神とされるイセツヒコは『伊勢国風土記逸文に本名が出雲建子命、別名が櫛玉命とあることから
伊吹神の子孫に設定されているようですが、神武天皇が派遣した天日別命に国土を渡すよう要求されたことで
「強風を起こしながら波に乗って東方へ」去ったため、その地に天皇がイセツヒコの名を冠し伊勢国にしたとか)
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2/6のように一転して吹雪く気配はないものの雲が厚いですね…。
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有難いことに、石段の雪は融けていました。
とはいえ、視力0.05で歪な石段を登るのは危ないので、ここから8分後、
石段を離れて、コンクリート舗装の坂を選びました。
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ところが、この道からは社殿へ行けないのか、赤い注意書きが!?
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ま、どこで演奏しても修行なので…。
では今日の最後に、ここ福王神社の真南に位置する
切畑の伎留太(きるた)神社へ立ち寄ってから帰ります。
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菰野町には「多比鹿」「伎留太」という三文字社名の延喜式内社があります。
たしか和銅6年(713)に『風土記』の編纂が命じられた時、地名を雅字を用いた二字で
書き表わす「好字二字令」が出されています。
それで地名が「きるた(伎留太)」→「きるはた」→「きりはた(切畑)」になったのでしょうか?
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この上の菰野町切畑猿ケ尻に畑与九郎が築城した「切畑城跡」がありましたが、
天正5年(1577)織田信長に滅ぼされたそうです。
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今は木漏れ日が美しい静かな空間でした。
 
二度目の菰野町、田光鎮座の多比鹿(たびか)神社など数社が残ってしまいましたが、
4月のレコーディングが終わるまでは発声を変えなくてはならないため
古代歌謡はお休みします。
新緑の季節に再訪できることを祈りつつ。
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