藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

田沢湖

久々の秋田県蝦夷征討がチラつくため、どうしても足が重くなります…。
「秋田」の名称は、斉明天皇4年(658)日本海へ遠征した阿倍比羅夫
この地の名を「齶田(あぎた)」と報告したことに始まります(『日本書紀』)
雄物川河口部の古地形がアゴの形に似ていたと言われますが…?
 
日本海北部沿岸に拠点をつくりたかった朝廷は、庄内地方にあった
「出羽柵」を天平5年(734年2月4日)に高清水の岡に移し(『続日本紀』)
天平宝字年間(761年?)に日本最北の古代城柵「秋田城」としたそうです。
その「秋田」へ780年に出羽国府が移されると、蝦夷(天皇にまつろわぬ民)によって陥落。
朝廷は再び出羽国府を移して「秋田城」を再建し、蝦夷征討の拠点としました。
縄文の地が、血なまぐさい歴史の舞台となってしまったわけです。
 
さて、今日の目的地は日本で最も深い湖 田沢湖です。
秋田・青森の大規模縄文遺跡をまわりたいのはやまやまながら
一泊しかできないため、先ずは小規模な縄文遺跡が点在する仙北(センボク)
(2005年に仙北郡角館町田沢湖町西木村が合併し発足)を走ってみることに。
今は「こまち」で、タクシーを予約した角館へ向かっています。
 
神社の由緒ほど根拠を特定できないものはありませんが、
その不確かな創建年なりともヒントにするほかないのが実情です。
角館から田沢湖南部にかけては「養老2戌年(718)創建、大同2丁亥年(807)再建」の
由緒をもつ神社が点在しているとわかり、足を運んでみることにしました。
 
しかし「大同2年」に坂上田村麻呂(758-811)が当地の神社を再建できたでしょうか?
 
天応元年4月3日(781年1月30日)百済系渡来系氏族の和氏出身の母をもつ
桓武天皇が即位すると、渡来系氏族が優遇されることがあったそうです。
後漢霊帝の子孫と称する坂上氏の場合は、田村麻呂の父 苅田麻呂が
宿禰を賜りたいと上表して許され、忌寸から宿禰へ改姓しています。
 
桓武朝第二次蝦夷征討において、田村麻呂は延暦10年(791)に征東副使となりました。
日本紀略延暦13年(794)6月13日に「副将軍坂上宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とあり。
田村麻呂は桓武天皇により延暦15年(796)1月25日に陸奥出羽按察使兼陸奥守、
翌16年(797)11月5日に征夷大将軍に任ぜられました。
 
桓武朝第三次蝦夷征討が実行されたのは延暦20年(801)で、田村麻呂の肩書きは
征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守将軍」。
延暦20年2月14日、44歳の田村麻呂は征夷大将軍として平安京より陸奥国へ出征。
『日本後記』によれば軍勢は4万、軍監5人、軍曹32人。同年(801)10月28日に凱旋帰京。
延暦21年(802)1月9日、造陸奥国胆沢城使として胆沢城造営のため陸奥国へ派遣。
同年4月15日、胆沢城造営中に大墓公阿弖利爲と盤具公母禮等が500余人を率いて降伏。
延暦22年(803)3月6日、造志波城使として志波城造営のため陸奥国へ派遣。
 
桓武朝第四次蝦夷征討計画で、当時平安京にいた坂上田村麻呂
延暦23年(804)5月に造西寺長官を兼務することとなり肩書きが変わりました。
征夷大将軍従三位近衛中将兼造西寺長官陸奥出羽按察使陸奥守勲二等」。
しかし延暦24年(805)12月7日に桓武天皇が徳政相論で蝦夷征討の中止を決めたため、
こののち征夷大将軍たる田村麻呂が陸奥・出羽へ出向く機会はなかったはず。
 
よって「大同2丁亥年(807)再建」との社伝に疑いを持っているわけです。
 
書いているうちに角館に着きました。
田沢湖畔に泊まるため、田沢湖駅から往復するのは時間の無駄と判断し、
一駅先まで行って、田沢湖に戻るルートをとりました。
角館駅から5分ほどの熊野神社を目指しています。
熊野神社 (田沢湖神代熊野堂146)の創建は養老年間だそうです。
え…? これは古墳にしか見えないのですが。
朝廷の征討軍は先住民の古墳を陣地にしていたのでしょうか?
調べる手立てが無いし、この農道でタクシーに待機して貰うわけにも
いかないため、取り敢えず宿題として、ここは素通りします。
 
抱返(だきがへり)神社 (田沢湖卒田黒倉139)
抱返り渓谷の入り口に鎮座する当社は
康平5年(1062)に"前九年の役"で源義家安倍貞任を攻めるにあたり、
当地で川の流れを鎮めるべく祈願した持仏を懐に戦って勝利したため
義家が堂宇を建立して持仏を祀ったとの由緒をもちます。
「懐還」(だきかへる)⇒「抱返」(だきがへり)
しかし、ここに明治維新後、抱返神社と改名と書いてありますね。
いずれにせよ、水にまつわる祭祀が行なわれていたのでしょう。
今は上流にダムがあるそうです。
次に向かったのは本日のメインというか、以前から勝手にシリーズ化している神社です。
金峰神社 (田沢湖梅沢東田235)
本社ハ養老二年三月十八日建立、後城主梅沢家ヨリ田地五百刈寄付、
後梅沢氏羽前新庄ニ転封セラレシ後ハ角館城主芦名家ヨリ毎年知行アリテ祭事ヲ修メ、
芦名氏亡ビシ後ハ藩主佐竹公ヨリ世々社領十石ヲ寄進セラレタリト」との記録あり。
明治に「金峰神社」と改称される以前は「梅沢正観音金峰山蓮池社」とも。
718年の鎮座地は不明ですが、金峰神社の神域を遠目にみたら
かなり広かったので、現在の社殿より奥にあったのかも知れません。
この右手に禊ぎ場(?)もあるし、一大霊場として築かれた気が?
いざ、吉野神のもとへ。
私が吉野神ゆかりの場所で
「乙女ども 乙女さびすも 唐玉を 袂に巻きて 乙女さびすも」
という歌謡の演奏修行を続けているのは、天武天皇の時代、
吉野に神女が現れて袖を五度振って舞ったのが由来とされているからです。
独身女性で初めて天皇になった元正天皇(680-748)聖武天皇に譲位した後、
天下統治のため礼と楽を整備しようと五節舞を考え出されたと奏上しています。
その元正天皇の養老2年に吉野から勧請されたのが当社でした。
この由緒を読むと、創建されたのはやっぱり別の場所のようですね…。
ともあれ演奏修行をして、苔生した石段をそろりそろりと下りました。
人っ子一人いない空間で演奏修行できる機会は滅多にありません。
ここへ来られただけで今回の倭琴の旅は大成功!!
 
次は月神ですが、抱返神社から金峰神社への移動ルートにも2社ありました。
ただ、2社とも由緒不明だったため素通りし、「養老2戌年(718)の草創」
「大同2丁亥年(807)田村将軍男鹿蝦夷退治の定願によって再建」とある
もう一つの月神 (西木町小渕野日月田54)へ行くことに。
住所(大字?)の「日月田」そのままの風景が広がっています。
とはいえ、田圃のど真ん中の社殿一つで718年から続く歴史を感じ取れますか?
私には無理なので、画像を見て楽しみにして来た場所へ向かいました。
ここから北上すると「荒井熊野田の社」(西木町西荒井熊野田)が見えるはず。
天晴れですねぇ。ここまで空疎だと心を鷲掴みにされます?!
 
いざ田沢湖西岸の明神堂(古称=浮木の宮)へ…と105号線に出ると、
1262年創建と伝わる大国主神がありました。
もっとも社名は明治の神仏分離によって付けられただけとのこと。
ただし門には見惚れましたね…。
ここからは真東に進路をとり田沢湖へ。
うわぁ~急に視界が広がりました!
しかし…金の辰子像って!?
この風景だけじゃダメなんですか?
田沢湖岡崎神成沢には「辰子姫伝説」で知られる"辰子"誕生の地があり、
御座石神社周辺に、"辰子"が飲んで龍となったという「潟頭の霊泉」や
"辰子"が姿を映したという「鏡石」などの名跡があるのも不思議です。
いったい何を示唆・暗示しているのでしょうか?
偶像とか人口的建造物が苦手な私に、更なる打撃が!!
えええー?! 田沢湖西岸の明神堂って、この石祠だったんですか…。
 
気を取り直して湖岸を北上し、御座石神社(西木町桧木内相内潟1)へ。
御座石神社の名は、慶安3年(1650)秋田藩主佐竹義隆公が田沢湖を遊覧した際、
腰をかけて休んだことに由来するとのことで、新しい神社なんでしょうか?
もちろんこの階段を登ったりはしていません。
愚かで方向音痴の私は、運転手さんに「御座石神社からは夕陽が見えますか?」
などと質問し、運転手さんは「見えますよ」と太鼓判を押してくれました。
見える訳ないでしょ?!  田沢湖をトマト🍅に見立てたら、ここは上のヘタ部分です。
御座石神社は北辺にあるのですから、鳥居は間違いなく南面しています。
この先、東端へのカーブから夕陽が見えました。
己の愚かさに慄きつつ、自らを鍛えるために今日最後の演奏修行をしています。
最後の最後に、運転手さんが撮影して下さいました。
こんな私にお付き合い頂き、ありがとうございました!