藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

意布伎・意夫岐・伊富伎・伊不伎・伊布伎?

冬至」は飛鳥時代に中国から伝わった「二十四節気」の一つ。
二十四節気」とは、
日照時間が最長の「夏至」と最短の「冬至」で2分割、
さらに昼夜の時間が同じ「春分」と「秋分」で4分割、
その間に「立春」「立夏」「立秋」「立冬」を入れて8分割、
その8つを3等分したものを、日本の季節感に合うよう変えていったのだとか。
 
冬至」の期間は、今年なら12月22日~来年(2023)1月5日までの15日間。
ちょうどこの時期に京都へ行き、帰途、琵琶湖畔に立ち寄りました。
 
で朝食を頂いたあと、京都駅「はしたて」で山椒香油を買い、草津駅へ。
駅にタクシーが1台だけ待機していたので、素早く乗車しました。
琵琶湖方面へ西進していると、運転手さんが
「次の角で右折しますが、その時、比叡山が見えますよ」と仰います。
「あのフタこぶの山が比叡山です」
琵琶湖越しにハッキリ見えました。
 
琵琶湖は元々海人族の一大拠点だったはずですが、イブキ神が排除されたり
周辺に新羅から来た金属神アメノヒボコを祭神とする安羅(ヤスラ)神社があったり
かなりキナ臭い地域だったように感じられます。
ちなみにアメノヒボコ播磨国では伊和大神と土地の争奪戦をし
最終的に但馬国出石神社に鎮まったと伝わるため
当地ではイブキ神と土地を争って安羅神社に鎮座したということでしょうか?
 
最も驚いたのは、吉田三大神社という、およそイブキ神との接点がない
名前の神社が、かつては伊富伎神社だった点です。
吉田神道なら室町時代以降ですから、あとから書き換えられたのでしょう。
この吉田三大神社とともに三角形を形成しているのが
惣社神社(もと意布岐総社)志那神社(もと意夫伎神社)
支那三郷の三社」とも呼ばれていたそうです。
「シナ」とはシナツヒコ・シナツヒメという朝廷側の風の神からの名称で
伊吹山の「イブキ」もタタラに風を吹き込む神の名称だったことから
3社とも祭神が「イブキ」→「シナ」に変えられた可能性が高そうです。
 
吉田三大神社の藤棚に不思議な由緒がありました。
天智天皇天武天皇ですか…。内容がちょっと意味深?
物凄く風が強かったのですが、「志賀=滋賀」の歌を演奏してみました。
帰り際に椿を撮ったら、中央下に件の藤棚が写っていました。
 
吉田三大神社伊富伎神社の次は志那神社意夫伎神社です。
社記に、往古延喜式意布伎神社であったが何故か神号が改称されたとあり。
ただし清和天皇御宇(858-876)貞観9年御奉納の古鏡銘に「奉近江国伊富伎神」、
古鈴銘に「貞観九年四月」とあり、867年の時点ではイブキ神と称す。
国史神祗八巻には「貞観九年四月二日辛未遣神祗大祐正三位上大中臣朝臣常道向
近江国伊富伎神社奉弓箭鈴鏡云々」とあり。
旧神官春日家にも同様の文書があり、神名帳考証に志那ノ意布伎神是也と記さる。
参道を歩いていたら、前方から大きな鳥が飛んできて右の屋根にとまりました!
肉眼で、グレーの蒼鷺だと確認できました。
驚きです、非常に用心深い蒼鷺が人に近づいてくるなんて。
遠慮なしにバシャバシャ撮影してたら、少し間を置いて飛び立ちました。
草津のサンヤレ踊り」の幟がありますね。
「サンヤレ踊り」とは「風神踊り」のことです。
古来、志那浜は琵琶湖交通の要港で、舟の運航を助ける風神を崇拝し、
団扇二つで踊る神事が行なわれてきたのだそうです。
志那神社の祭神はシナツヒコ・シナツヒメになっていますが、
伊吹戸主の名もありました。
当然ながら、社殿の真正面に立つと、伊吹山を遥拝することになります。
そして住所が「伊吹里」!!
きっと昔日の面影などないのでしょうけれど、↓名残が!?
琵琶湖に近い当社は長い参道の両側が水路になっていて
社頭に舟を着けていたのではないか…と推測されます。
 
支那三郷の三社」で残る一社は、もとの意布岐総社です。
タクシーを方向転換し、琵琶湖を背にすると近江富士たる三上山が見えました。
近江富士を右手に見ながら北北東に約4分走りました。
左手の琵琶湖越しに見えるのは平良山地でしょうか?
あの辺をバイクで登ったり下りたりしたいと前々から思っているのですが…。
惣社神社の周辺は住宅密集地になっていて、路地の奥に鎮座していました。
これらイブキ三社にそれぞれ神楽殿があったことに驚きました。
が、他所者の私は勝手に社殿に上がったりはしません。
師匠からも演奏は天と地をつなぐイメージでと言われてきましたし。
古代歌謡を舞台上で演奏するイメージはありません。
当社も住所"今はなき字(あざ)"が最高です。「吹気」!
そして「支那三郷の三社」の惣社たる当社にも風招と呼ぶ大団扇を持って
三奏の神歌とともに天を仰いで行なう神事「風神踊」があります。
 
次の印岐志呂(イキシロ)神社の祭神は大己貴命で、国常立尊が配祀されているとか。
大己貴なら伊福部氏ですが、こちらも朝廷に平らげられたのでしょうか。
天智天皇(668-671)の勅願により大和国三輪大社から分祀されたと社伝にあります。
延喜式神名帳にある栗太八座の一ですが、珍しい社名の由来は
用明天皇即位2年(587)夏に悠紀地方に定められたことから印岐志呂と名付けた?
「悠」を「印」に変換したのは、「印」をヤ行音と見做していたからでしょうか?
しかし、悠紀・主基(ゆき・すき)大嘗祭(だいじようさい)における祭儀に関する名称で
"新嘗"と区別した語としての"大嘗"は『日本書紀』天武2年(673)にみられるため、
587年の悠紀の国というのは伝説ではないのでしょうか?
神社など人工的建造物に興味の無い私が当社に来た理由は古墳群にありました。
社殿に向かって左手の方に入ってみました。この位置から見た社殿↓
朝廷の権力を誇示するかのような立派な社殿ですねぇ…。
私はこういう↓取り立てて何も無い空間の方が落ち着きます。
古墳群というけれど、蜘蛛窟も混在してる? との疑いをもっています。
なぜ蜘蛛窟じゃないかとの妄想が湧いたか?
恐らくそれは志那港から当地に至る地形や歴史からきています。
志那港へも行ってみましたが、建物が邪魔をして港を撮れませんでした。
ここで天武天皇元年6月24日~7月23日にかけての壬申の乱(672)における
両軍の進路を見てみます。
上の図の琵琶湖の南端「瀬田橋」の真北約 8kmに志那港があります。
7/17の「栗太の戦い」、7/22の「瀬田橋の戦い」は
いずれも古代「栗太郡」で繰り広げられました。
『和名類聚抄』などに「栗本郡」と表記され、「くりもと」→「くりた」郡の
可能性もあり、郡内の勢多(瀬田)には近江国府が置かれていました。
 
ヤマト王権以前には伊吹山を本貫とするイブキ氏の勢力範囲だったと思われる
琵琶湖東岸が朝廷軍に平らげられたことで「栗太郡」のイブキ神社は
その名を変え、イブキ神がシナツヒコ・シナツヒメに取って代わられた。
これが今回「支那三郷の三社」および印岐志呂神社へ行った印象です。
 
午前中から雪のため山陽新幹線が広島付近で徐行との情報もあり、
草津市は気温が低い上、楽譜が飛んでしまうような強風だったため
早々に帰京しました。
今日端折った場所は日を改めて訪問したいと思います。
今回も同行して下さった方に撮影していただきました。
感謝申し上げます。