藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

豊岡市 伊福部神社

イ+フキ+大明神(神社)を巡る中で気になっていた豊岡市伊福部神社
何年も計画を練りつつ果たせず、やっと訪問できる運びとなりました。
悪天候をモノともせず、予定通り和田山駅へ向かっています。
車窓からでも雲の重さがわかります。もともと雨の予報ですしね。
今回はレンタカーを借りて運転して下さる方がおられるため和田山駅で下車。
駅に着く15分以上前から山、山、山の景観に、和田山とは「わだつみ」の
海人族が拠点にした山の意なのか…と妄想しきりでした!?
ところが、駅に着いたら↑青空が見えていたんです!!
 
レンタカーを借りてから豊岡市中村の伊福部神社へ向かう道に、
延喜式内社夜夫(ヤフ)坐神社 五座(名神大社二座・小社三座)があります。
天平9年(737)の『但馬国税正帳』に出石神社粟鹿神社とともに記載のある
但馬国三ノ宮で、現在は養父(やぶ)神社夜夫の方が読みやすいですね。
 
古代から栄えていた場所は地名表記の変遷もあって難読地名が多いようです。
住所は「養父市養父市場」、祭神は『延喜式神名帳』の注釈書たる
『特選神名牒』(1876)に「大己貴命以外の四座は不詳」とあります。
これだけ大きな神社でもわからないことだらけなんですね…。
 
養父神社へ立ち寄るつもりが、突如、激しい雨に見舞われました。
これでは同じ円山川に鎮座する延喜式内社和奈美神社へ行くのも無理ですね。
養父市八鹿町(ヨウカチョウ )下網場(シモナンバ)和奈美神社の横を素通り…。
和奈美の水門の故事にちなむとありますが、上の住所も読めません!
八鹿町史』によれば、和奈美=鳥を捕らえる道具、網場=網を張った場所を暗示し、
円山川養父市場から下網場にかけては昭和初期までコウノトリが生息していたそうです。
「うわっ虹が出てる!」とK子さんの声!?
肉眼では大きめの虹が2本。右側も撮ってみましょう。
この間、円山川を北上し、2号線(宮津養父線)にぶつかってから右折して川を渡りました。
 
延喜式内社伊福部神社天平19年(747)に伊福部連の祖 天香山命を祀ったと伝わり、
近世では「五師宮」とも「式内 大生部兵主神社」とも言われたりしたそうです。
「五師」とは!? やはり「イツシ」=「出石」なのでしょうね?
おおお…、やっと念願の伊福部神社に来られました!!!
鳥居の左手にはイチョウ、右手にはまだ紅葉🍁していないカエデ?!
念願だった伊福部神社での演奏修行を果たせて、ほんとうに良かった…。
ただ、一つ気になるのは、古代の神社には御神体山と川がつきものなのに
伊福部神社の眼前に流れているのは円山川水系の奥山川だったんです。
出石を象徴する出石川は背後の御神体山の反対側を流れているばかりか
当社の真裏にあたる場所には「出石町鍛冶屋」の地名がありました。
「鍛冶屋」こそ青銅・製鉄の神たる伊福部氏を象徴する地名ではありませんか!?
その謎を解くカギは、やはり地名にあるのかも知れません。
ここ出石町には「五師」「伊豆志」のほか、「ミツシ」があるのです。
語頭や語尾の変化に興味をもつ私は「イツシ」と「ミツシ」を放置できないため
出石町桐野」にある延喜式内社御出石(ミツシノ)神社(名神大社)へ行くことに。
伊福部神社を出て、L字に曲がった出石川沿いに東進すると、出石丘に
天日矛命の子孫によって祀られたという御出石神社があります。
祭神は、天日槍命と加茂大明神と出石乙女(伊豆志袁登売)神?
ここまで既に「五師」「出石」「伊豆志」の表記が出てきており、
御出石神社の祭神が「出石乙女神」ならば、イツシ=ミツシとも言えそうですね。
ずいぶんと広大な社地ですね…。どの方角を眺めてもこんな感じです。
社殿が小さく感じられるほど。いえ、社殿の大きさは普通なのですが。
またしても妄想が湧いてきました。
出石川沿いの当地が本来の伊福部神社の社地で、今の伊福部神社の社地には
境内に石碑のある「式内大生部神社」が鎮座していたのではないか…との疑問です。
もちろん何の根拠もありません。ついでに、当社から東に2km、
同じく北緯35.45「豊岡市但東町水石」鎮座の水石(ミヅシ)神社へ行ってみます。
え?!  「式内御出石神社」の碑が建っています。地図に水石神社とあったのに…。
祭神は伊豆志袁止売(←またしても表記が異なる!?)一神だそうで、ここにも式内社論争が?
鎮座地の但東町(たんとうちょう)は、2005年4月1日に豊岡市城崎郡城崎町竹野町日高町
および出石郡出石町と合併し、"新"豊岡市の一部になったそうです。
まあ現在でも地名がどんどん変わるのですから、長い歴史の中で、社名や地名が
変わっていったのは当たり前のことだったのかもしれませんね。
いよいよ日没…。今日の最後は但馬国一ノ宮たる出石神社なのですが、
北上するついでに、「出石町下谷」鎮座の延喜式内社石部(イソヘノ)神社とその北北東
出石町入佐」にある入佐山(イルサヤマ)3号墳の位置関係を確かめておこうと思います。
画像中央に「式内石部神社」の碑があるものの、左端には「皇太神宮」の碑。
祭神が上書きされた可能性が高そうです。当社の背後の高台に入佐山古墳?!
入佐山3号墳は4世紀後半の築造と言われ、被葬者の頭付近に置かれていた
150gの砂鉄が国内最古級の浜砂鉄だったことで話題になりました。
古墳の副葬品として砂鉄が用いられた例は現時点では国内に無いそうです。
ほかに、鉄剣・鉄鏃・鉄斧などの鉄製品が副葬されていることもあり、
この古墳の被葬者と砂鉄および鉄器とのつながりが議論されているのだとか。
是非とも再訪して古墳を見たいものです。
伊福部神社や「鍛冶屋」の地名が残る豊岡に国内最古級の浜砂鉄があったことで、
断定はできないものの、古代伊福部氏の本拠地の一つだった可能性が期待できます。
 
最後は「出石町宮内」の出石神社こと名神大社伊豆志坐(イツシニマス)神社です。
祭神は、谿羽道主命と多遅麻比那良岐が祀った天日槍命がもたらした八種の神宝だとか。
アメノヒボコは伝説上の「新羅の王子」で、製鉄などの新技術をもたらしたとされる
渡来人集団の象徴です。そうした技能集団が伊福部氏に取って代わったとしたら?
但馬では弥生時代から古墳時代にかけての遺物や遺構に朝鮮半島の影響がみられ、
渡来人集団が幾度にもわたって移ってきた可能性が指摘されています。
ただし但馬では未だ隣の京丹後市「遠所(えんじょ)遺跡」のような、砂鉄を原料とする
古代の製鉄遺跡が見つかっておらず、その発見が期待されているそうです。
 
さて、今日の晩御飯は出石町荒木の味処二代目いずし川さんです。
私は美味しいものを食べないと動けないので、地産地消のフルコースを
個室で頂くべく予約しました。何を出して下さるでしょうか。
出石町では殆どのお店が17時閉店で、お茶すら飲めません。
こちらは18時~22時という希少なお店です。
期待通りの前菜でした。手前の、チーズの味噌焼きとイチジクが最高でした!
すべての食材が大好物だったので美味しくいただきました。
この新鮮さは何? と思って訊いたら、香住漁港で仕入れておられるとか!?
まさか出石町で香住で水揚げされた新鮮なお魚が食べられるとは思ってもみませんでした。
こちらもまた信じられないほど手のこんだ一品でした。
ベースが鳥軟骨のつくねで、旬の銀杏の美味しかったこと!!
柿とほうれん草の白和えシャインマスカット入り、真似しようっと。
お野菜が美味しいと思ったら、こだわりの自家農園を営んでおられました。
黒毛和牛も超美味で、歯の弱い私でも楽々いただけました!
黒毛和牛の別の部位を小さなすき焼き鍋で(私はしゃぶしゃぶっと頂きました)
ごはんものを撮り忘れましたが、お芋の入った炊き込みご飯だったかと。
デザートまで全て美味しくいただきました。
絶対にまた来たい!ので、同行者を募集いたします。
 
さ、明日も、イ+フキ+大明神です。同行の皆様よろしくお願い致します。