『梁塵秘抄口伝集』巻第十四に
「和琴は和國の器にして、日本の音曲の頭としるべし。」
「稽古なくしては器よりとがめをいたすなり。琴に神気あり恐むべしと」
とあり、心構えが間違っている人は、名器の前に出て弾いたとしても
やはり心の誤りが音色にあらわれ出てしまうとも言われています。
「まがれる人は猶そのまへに掻といへども音のいづることなりといへり。」
極め付きが、声は笛や琴と違い、なおさら誰のせいにもできないとの指摘です。
「声こそつらきものはなし。わがほどほどにいづるものにて、
管琴とはちがひなをなをそのせんなしと申あひぬるぞかし。」
厳しいですね…和琴の道も歌の道も。
『口伝集』を繰り返し読み込んだつもりでしたが、昨夏から今冬にかけての
体調不良と伊福部作品の収録で、心ならずも和琴から遠ざかっていました。
そんな中、今日の午後、整体へ行った帰り、体調が良ければ
どこかで演奏修行してみようと思い、楽器を持って出かけたのです。
前々から気になっていた竹内神社が第一候補でした。
その社名が武内(竹内)宿禰を想起させるためです。
竹内神社の詳細は古記録の類が安政6年(1859)の名主方の火災で失われたため不明。
「伝聞、再改」の奥書のある文化3年(1806)の『由来記』一巻の巻頭に、
ハニヤマヒメとミツハノメの文間大明神両社(現 蛟蝄神社)、
ククヌチノミコトを祭神とする布川大明神(現 布川神社)、
カクヅチノミコトの布佐大明神(1593年に竹内社を合祀し竹内神社に)、
以上が「相馬五行の社」として列挙され、祭神にも関連性がありそうな感じ。

竹内神社=布佐大明神の祭神が、出産でイザナミに火傷を負わせて
死に至らしめたカグツチなら、布瀬大明神の祭神カナヤマビコと
文間大明神両社の祭神ハニヤマ(ハニヤス)ヒメ&ミツハノメは、火傷に
苦しむイザナミから生まれたというふうにデザインされているよう。
延喜式内社たる相馬蛟蝄神社=文間大明神両社の神官が
郷社竹内神社=布佐大明神の祭礼に奉仕したという
『由来記』の記述にも、古くからの繋がりを感じました。
布川大明神のククヌチ(ククノチ)だけが異質ですが。
竹内神社の元宮には、現在、布佐愛宕八坂神社が鎮座しています。


布佐・布川間の狭窄部あたりですが、実際に穫れたのは利根町布川側だったようです。

行き交う港町、いわゆる布佐河岸として栄えたそうです。

土手を左折すると、社地らしきものが見えました。

おそらく元宮「竹内社」でしょう。もしかして、かつてはここが河川敷だった?

躊躇なく上がってきました。原付の強みですね!?

シンプルな社殿、コンパクトな境内でした。

文武天皇2年(698)、当地に「竹内社」創立。
この創立年は延喜式内社たる蛟蝄神社=文間大明神両社の創建年に合わせた可能性があります。
布瀬大明神に香取鳥見両神社を比定したのも創建が「文武2年9月15日」だったからで、再建記念碑に
「文武2年6月は、大干害にて諸作物が皆枯死し地方の人々は嘆き、近郷の農民が協力努力して当地に
集合、氏神に祈願し忽ちにして甘露の雨を降らせ、五穀豊穣を得たが故に同年9月該所に一宇を
建立したのが始まり」とあることから、竹内神社の元宮たる「竹内社」が箔を付けようとして(?)
いずれかの時点で創建年を文間大明神2社や布瀬大明神に合わせて、4社の祭神をイザナミの死に
纏わるカクヅチ、カナヤマビコ、ハニヤマヒメ&ミツハノメに揃えた可能性が疑われます。
布瀬大明神に香取鳥見両神社を比定したのも創建が「文武2年9月15日」だったからで、再建記念碑に
「文武2年6月は、大干害にて諸作物が皆枯死し地方の人々は嘆き、近郷の農民が協力努力して当地に
集合、氏神に祈願し忽ちにして甘露の雨を降らせ、五穀豊穣を得たが故に同年9月該所に一宇を
建立したのが始まり」とあることから、竹内神社の元宮たる「竹内社」が箔を付けようとして(?)
いずれかの時点で創建年を文間大明神2社や布瀬大明神に合わせて、4社の祭神をイザナミの死に
纏わるカクヅチ、カナヤマビコ、ハニヤマヒメ&ミツハノメに揃えた可能性が疑われます。
文禄2年(1593)、布佐大明神の地に遷座し「竹内神社」となる。
この遷座は、社伝では「文禄二年癸巳六月」。『由来記』に、森田左右衛門(多右衛ともあり)が
宮作台の畑で麦を刈っていたら雷雨になったため刈り取った麦を積みあげたまま帰った翌日、
一夜にして竹の子が生え、白蛇がとぐろを巻いていたことから、行者が愛宕神社に祈ると
「竹内社を此の地に移せ」との神託があったとの、白蛇出現の伝承が記されていたそうです。
宮作台の畑で麦を刈っていたら雷雨になったため刈り取った麦を積みあげたまま帰った翌日、
一夜にして竹の子が生え、白蛇がとぐろを巻いていたことから、行者が愛宕神社に祈ると
「竹内社を此の地に移せ」との神託があったとの、白蛇出現の伝承が記されていたそうです。
さて、地図を見ても現在の竹内神社へ行く道がわかりません。
正式な参道は、布佐中学校の横にあるらしいのですが?

あの奥に極めて急な石段があると書かれていました。
駐輪スペースもないし、別のルートを模索した方がよさそうですね。

この位置から地図と見比べると、墓石の向こうが竹内神社で、
布佐中学校の上の高台に布佐小学校があるようです。

小学校の校門前の狭いクネクネ道を右方向へ進んだのが正解だったみたいです。

お約束通り、崖っぷちに建っていて、左手が小学校の校庭でした。

竹内神社の社殿に正対する参道はこちら。

たしかに石段の幅が狭く、危ない感じ…。
椿の花がたくさん落ちてますね。大好きな藪椿かな?

ただ、どうしても気になるのが竹内神社の社殿です。

この社殿よりも、向かって右手のこんもりの方が神社っぽい?!

思いつきで来訪したため、右のこんもりが何なのかわかりません。

帰宅後、検索して見つけました。

いずれにせよ、竹内神社より雰囲気がありました。

↑こちらが御嶽神社の参道です。上の境内図には記載されてませんが。

ということで、この位置で演奏修行をすることに。
ところが、直前の旧「竹内社」に続き、ここでも楓の琴柱が
バンバン倒れたんです!! 立てても立てても倒れる。
先ず、ずっと古代歌謡を歌っていなかったため、声がダメ。
「声こそつらきものはなし。わがほどほどにいづるものにて、
管琴とはちがひなをなをそのせんなしと申あひぬるぞかし。」
いい加減な声で歌うわけにはいかないので頭からやり直していたら
そのうち低音が安定して、声が鳴るようになりました。
何度目か…で、やっと一曲を通せたのです。
いや、それ以前に、楽譜を持って行ってなかったのでした!?
よって暗譜で出来る《阿知女》しか歌えなかった上、
声がふにゃふにゃだったのですから、お話になりません。
「稽古なくしては器よりとがめをいたすなり。」
「まがれる人は猶そのまへに掻といへども音のいづることなりといへり。」
ちょっとリハビリをしてくるか…的な、軽い気持ちで
和琴の弾き歌いを行なったのですから当然の報いです。
しかも、なぜか、演奏している時だけ暴風にさらされて、
口の中にも目にも容赦なく砂が飛び込んで来るため
ひどく咳き込んでしまいました。もちろん、鼻水も。
それでプロポリスを探すために演奏を止めると無風になって!?
心がけの悪さを根本から反省させられた出来事でした。

竹内神社では雨水の浸入を防ぐための留蓋瓦(とめぶたがわら)の飛び狛(獅子舞?)が印象的でした。
