最初が2001年11月19日なので、もう24年近く前になりますね…。
伊福部昭先生の御長男から
「藍川さんのホームページを見て、伊富岐神社へ行ってきたよ。
僕のホームページのトップに小さく写真をupしたから見て。
父は藍川さんには伊福部氏のことを色々と話しているようだけど
僕ら子供の世代には何も言ってくれないんだよね」
と言われるたびに
「それは、伊福部先生と、先生が信頼しておられた谷川健一先生の弟で
必ず古代歌謡を演奏できるようになると仰って下さっていて、
それこそ縄文時代から海人族が奏でていた古代歌謡を、彼らが
暮らしていた場所で演奏してほしいとのお考えからなので…」
とお話ししていました。
近年も私のホームページをご覧いただいて
「岡山の伊福へも行ってきたので、次は豊岡の伊福部神社へ行くつもり」
とお話し下さったので、私からは
「美濃国池田郡伊福郷へ行ったつもりだったのに、いま一つ場所に
確信がもてず、再訪したいので、ご同行いただけませんか?」
と提案させていただきました。
伊福部神は金属神なので、現在も採掘が続く金生山(かなぶやま/きんしょうざん)
以北、粕川以南が「池田郡伊福郷」だろうと私は想像していたのです。
ただ、伊福部神は風神・雷神でもあるため、雷公神社を無視できません。
北西約7kmに池田山があります。
その池田山から藍川郷の伊富岐神社までが約7.4km、
伊富岐神社から金生山までが約8kmという三角形になっていて、
三角形のてっぺん=池田山の北麓と南麓に雷公神社がありました。
現在はそれぞれ祭神が異なりますが、美濃国池田郡の池田山なので
伊福郷の場所を特定するためにも、2つの雷公神社を確認したいのです。
そんな話をしていた矢先、昨年12月に入院中の御長男が他界されました。
前日の朝、「葉桜終了後くらいに、小さなお別れ会を…」とのメールを頂き、
電話を差し上げてよいものかどうか迷っていたところへ訃報が届きました。
「葉桜終了後」の今、伊福部氏ゆかりの場所で、40年余お世話になってきた
御礼を申し上げつつ奉納演奏させて頂ければ私共らしいお別れになるでしょう。

伊福部氏に直接関わる古社とは言えそうにありません。
里伝曰く鳴神神社とす。」とあり、延喜式神名帳(927)にも載っていることから
春日六合の雷公神社より200年以上古い可能性があります。
今回は課題が「池田郡伊福郷」ということで、地名を
主たる神社を『揖斐郡志』(1924)で確認したところ思わぬ発見がありました。
表面的には「伊福」に関するヒントはほとんど得られず、
まるで痕跡をきれいに消し去った…とでも言えそうな印象でしたが。

こちらは候補が多いため、後で地図に場所を記して検討したいと思います。
同じでしたが、「来振(コブリノ)」の比定地が多くなっています。
従五位下 八岐明神(養基村田中式内郷社養基神社)、
花長下神社(谷汲村名禮式内郷社花長下神社)。
以下の来振神を、岐阜神社庁は白山神または白山比女神としています。
正二位 来振明神(鶯村公郷村社白石神社か)、
正二位 白石明神(富秋村稻富式内郷社来振神社)、
来振神が白山権現だとしたら「池田郡伊福郷」探しとは無関係ですね。


1036年(長元8年)、五百木部惟茂解が美濃国池田郡司をつとめていたそうです。
その本拠地を「伊福郷」と考えてよいのかどうか、『和名類聚抄』(931-8)の
池田郡は、10世紀の『和名類聚抄』成立までに安八郡から分離したと言われ、
「伊福郷」の位置は地元でも諸説あって、資料によってその範囲が異なります。
『揖斐郡志』は池田郡東端部の
『大日本地名辞書』『春日村史』等は
よって揖斐川および粕川付近へ行ってみますが、
「伊福」地名らしきものは見当たりません。
養基(やぎ)神社から北の粕川までを「伊福郷」とする説の根拠として、
「養基」を「ようき」と読むと「いおき」に発音が似ているため
伊福部氏の神社に違いないとの文を目にしましたが、どうでしょう?
延喜式神名帳に池田郡一座として「養基(ヤキノ)神社」、
往古は「八木之宮」と称していたそうなので、「やき」の当て字を
「ようき」と読むのは唐突だし、「養」の訓は「ヤウ」なので
「YauKi, YouKi」となり、「YFuKi, YFoKi」と同系統とは思えません。
明治以前「伊吹大明神」だったと現地では言われています。
「結」は「ユフ」で「ユフキ」、「言ふ」に「イフ」「ユフ」などの
揺れがあることを考えると、「YuFuKi」⇔「YFuKi」はあり得ます。
岐阜神社庁のページに
「創建年月不詳なるも郡内稀に見るべきの古社にして従六位上 伊福部君は
当社の氏子にして尊信篤く本殿の改築等修行せり」とあったことから、

左折して西進。やはり古社には川がつきものですね。振り向くと社頭。

すごい! 社名の書体で伊福部先生の揮毫を思い出しました。

とても清々しい空間です。

気持ちよく演奏させて頂いて鳥居の方へ戻ると、立っておられる方が!?
「こんにちは!」と挨拶したら、手書きの小冊子を差し出されました。
この場で全文に目を通すのは無理と感じ、「写真を撮らせて頂けますか?」と
お願いしてページを開きました。この時点で、「ご近所に伊福部さんという
方はおられますか?」とお訊きしたら「居ませんねぇ」とのお返事でした。
小冊子には明治の一村一社の令で近隣の神社と合祀された経緯が書かれていました。

と青ざめたものの、基礎工事の際に発掘された鰐口の銘で「裕木大明神」が
当地にあったと推測され氏子一同感激したとあったので、私も安堵しました。
ここ谷汲徳積の結城神社と同じ北緯35.526を西に2.5kmほど進むと
花長上神社、延喜式内社花長(ハナナカノ)神社があります。
岐阜神社庁のページには
「創建年月不詳古くは上鼻長大明神と云ひ近くは七社明神と云ふ」
「里伝曰 上花長 下花長の両神社は御夫婦なる」とありました。
そこへ向かうためタクシーに乗ると、先ほどの男性に「次はどこへ行くの?」
と訊かれ、「花長神社です」と答えたら「花長は2つあるよ」と言われたので
「両方です」と言うと「私が先頭してあげる」と仰って車で走り始めました。

杭瀬川に沿ってクネクネと5分ほど走ったら花長上神社に着きました。

広大な社地に立っているため、鳥居からずいぶん歩きました。
かつては「鼻長」とも書いたとあるため、祭神は猿田彦でしょうか?
すると、下神社の祭神はアメノウヅメということになりますね。
夫婦神たる花長上神社と下神社は、ともに東経136.594に鎮座。
岐阜神社庁のページには
名禮村と改号せりと云ふ しかれば正親村は意保幾(おほき・いほき)村にして
意保幾は實は祭神意保須美比古佐和気能命より出たるもの」とあります。
これは大変な発見です!! やっと「伊福」地名が見つかりました。
「おほき・いほき村」!
「養基・八木(やぎ)」を「ようき」と読ませている場合じゃありません。
現住所は「谷汲名禮」なので、「伊福」地名だったとは想像もしていませんでした。

ほんの数分、杭瀬川の支流沿いを走ったら花長下神社に着きました。
道は当社までで、この先が行き止まりだからかどうか、道端に社殿が!?

天然記念物「ヒメハルゼミ」の碑と案内板がありました。

「鳴き声を聞いたらヒメハルゼミだってわかりますか?」
「そりゃあ、わかるよ」と自信たっぷりに仰います。
日本国内の 1,2ヶ所でしか聞けないとしたら、聞きに来ないと!

今日は古社ばかりまわったので、どこも駐車スペースがなく、運転手さんが
車を離れられないため、案内して下さった方に1枚だけ撮っていただきました。
揖斐川方面へ南下中。このあたりに「伊尾野会館」があるようです。

小島山(標高863m)と室山(標高372m)の間に形成された朝鳥谷(浅鳥谷)に鎮座する
朝鳥大神・朝鳥明神は、すでに1664年に500mほど真南にある日吉神社に
神山の中に四基の円墳があることから、アニミズムの聖地とされているようです。

何の案内もないけど、赤く見えたので、ここを上がってみます。

繁みに入ったら、「朝鳥大明神」の碑がありました。

私のような者は何も感じませんが、祖先神ならば祭祀を続けるしかありませんよね。
根本の祭祀は、火を熾し、朝鳥の発声をして日の出の太陽を鏡に迎える冬至祭で
祭主がコケコーと三度発声し、それに応えて参列者がオーと発声するときけば
伊勢の式年遷宮の儀式における「鶏鳴三声」を連想します。
当地はお伊勢参りが盛んで、村人が伊勢講をつくり、毎年正月に
交代で伊勢参宮を行なっていたそうですから、神宮の儀式に倣ったのかも?

帰る際に中から撮ったら、見たことのない鳥居でした。
さて、いよいよ粕川沿いを走ります。地図に書き入れた通り粕川は糟河であり、
伊吹山地から出た金属滓が流れる川の意味と言われています。
谷川健一先生の『青銅の神の足跡』を引くまでもなく伊福部神=金属神です。
糟河大神とは金属滓を出す精錬技術者らの奉斎する神、あるいは
彼らを統率管理する者の神格化かもしれません。それゆえ、
粕川沿いに六社神社が置かれ、糟河大神に比定されているのかも?
私は六社神社のどれかが糟河大神だったわけではなく、イコールと感じます。
各拠点に置いた?

この六社神社は、粕川が北上し長谷川と分かれる地点にありました。
なお、伊吹山地の東側、粕川を抱く山地一帯の住所「春日」は、
滓→糟→粕の川「かすがは」が「かすが」になったと言われています。

小宮神村・中山村が合併して成立した「春日村」は、
合併し、揖斐川町が誕生したことで消滅しました。

粕川沿いでは、揖斐川町春日六合の雷公神社と、北上する粕川から西へ入った
長谷川沿いの斐川町春日中山にある六社神社(糠河大神?)へ行きました。
が、雷公神社は入り口に気づかず通り過ぎて、少し高い位置から撮影しました。

もの凄い急勾配を登ったことがわかる(?!)画像です。

しかし雷公神社はどこに?
運転手さんが「小さな入り口らしきものがありましたよ」と仰るので
タクシーを降りて撮ったら、川で分断されていました!?

あれま。社殿らしきものは見えるのですが…。

驚くほど人家が密集しているのに、古社のハードルが高すぎました。

標高が上がっても人家が途切れることがありません。

春日中山の六社神社を目指していますが。

この道でいいの? と不安になっていたら、道の端に「観音寺」と出ていました。

やっと到着。↓画像の左端に鳥居が少し見えています。

神仏習合の名残なのか、「観音寺」と六社神社は隣接しています(というか同じ社地?)。

鳥居の手前に、観音寺へ上がる階段がありますよね?

巨木だらけの社叢は岐阜県天然記念物に指定されていました。

階段の上はこういう感じ!?

拝殿の後ろに本殿があり、この石組の左手に奥宮?
秋葉神社への石段がありました。

もちろん私は登りません。↓を見たら遠そうだったので。

石組と人家の多さを見ていると、かつてはあちこちに坑道が巡らされていたのか
との妄想に駆られます。

よく「辺鄙な、観光地でもない場所へ行かれますね」と言われるのですが、
古代は、青銅製鉄の神たる伊福部氏が居た場所こそが「銀座」でした。
その視点なくして古代歌謡が演奏された場所へ辿り着くことはできません。

ここから県道257号線(川合垂井線)で南下し、垂井へ行きたかったのですが、
岩手峠が未舗装ゆえ諦めて引き返しました(バイクでリベンジしたい!)。

運転手さんは、山あいの道端に置かれていた自動販売機(!?)に夢中でした。
せっかくなので、「遠敷神社境内跡地」も見ておきましょう。

遠敷神社は若狭國一ノ宮の祭神が降臨して仮宮を営んだとされる下根来の遠敷(をにふ)川
鵜乃瀬の清流の地「白石」=「若狭比売比子神社の元宮」と無関係ではないでしょう。
湖底に沈まなかった唯一の集落「門入(かどにふ)」の地名でもわかるように
西濃地方は古くから辰砂が生まれる地として知られていました。セメントの原料
となる石灰石も水銀の主要な鉱出源で、金生山には今も石灰工場があります。
日本では縄文時代から水銀を採取していたと言われており、往古より
西濃地方には水銀の精製に関わる人々が住んでいたと考えられています。
錬丹術を身につけた空海が金生山明星輪寺を再建したのも偶然ではないでしょう。
白石明神・白石神社が見られることも若狭國一ノ宮との関連を疑わせます。
岐阜神社庁は「来振神」を白山神または白山比女神としていますが、
中でも富秋村稻富式内郷社来振神社=白石明神と
若狭國一ノ宮たる若狭彦神社・若狭姫神社の祭神との関連を疑いたくなります。
以上の「遠敷」と「丹生」は次回の課題にするとして、一応、
この周辺を「池田郡伊福郷」とする説が最も有力なので。

「伊福」地名ではないものの、祭神の広国押建金日命(安閑天皇)は
私のもう一つのテーマに関わる隠語(?!)とされているため。
ところが、山をぶった切って新道を通したのか、道路の右が蓮如上人御廟所、
左が平尾神社と地図にあるものの、入り口がわかりません。

勘を働かせて、何とか社頭に辿り着きました。駐車スペースはありません。

ここだけがホッとできる空間でした。この先はすぐ突き当たりなので。

突き当たりを右折したら、左手に階段が見えてきました。

国分寺に近いし、かつては賑わっていたのかもしれません。

垂井町には150基ほどの古墳があるとされ、当社は右奥に古墳地帯を背負う形で
建てられたと思われますが、100m北に東海道本線(新垂井線)が敷かれたことで
分断され、本来の意味が失われてしまった神社と言えるかもしれません。

社殿に向かって左側が216号赤坂垂井線、右手が東海道本線(新垂井線)となります。

『古事記』に出てくる「喪山」の近くでもありました。
喪山古墳を眺めつつ垂井駅へ。

倭琴の旅を開始した当初、対馬に通って「シカの海人」に関連する
地名「志式」「志賀島」「志古島」にふれて「シキ・シカ・シコ」の
語尾変化にヒントを得た私ですが、「伊福」地名では
「イヒ(揖斐・井光?)・イフ(伊冨利部・伊吹?)・イホ(五百木部・揖保?)」に痺れました。
実は、広範囲に跨る「揖斐川町」そのものが「伊福」地名と言えるのかも?!