藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

伊福八幡神社と伊古遺跡

今日は小浜温泉から雲仙温泉を経由して島原半島の北辺へ向かいます。
縄文草創期の「伊古遺跡」は、地理院地図によれば、標高 7~13mのようです。
「伊古」の名に関しては、南西の「伊福」との繋がりを疑っています。
また「イコ」について、高知県に「伊気(イキ・イケ)」が密集していること、
「神母」と書いて「イゲ」と読ませていることとの関連が気になっています。
「イキ・イケ」の原形が、「大祓詞」に登場する祓戸四神の一柱で
穢れを風の力で異界へと吹き放つ神「伊吹戸主・気吹戸主」だと仮定して
「伊・吹・気・戸」→「イキ・イケ・イコ」への転訛は強引すぎますか?
志賀の海人の「シカ・シキ・シコ」の語尾変化は極めて自然でしたが。
 
ともあれ、雲仙では「イフク」の隣に「イコ」がある。これは事実です。
「伊古遺跡」は島原半島北側に広がる雲仙普賢岳の麓の扇状台地上に位置し、
西に西郷川が流れ、東に比高差5mほどの舌状丘陵がのびる水田地帯です。
諫早湾の対岸、1000m級の山々の方が水田地帯よりも気になりますが、
「伊古遺跡」は、黒曜石の石器の様相から縄文時代草創期にまで遡れる
縄文・弥生・古墳時代および中世の複合遺跡で、その遺構や遺物は
島原半島の古代人の生活を知る上で極めて重要だと言われています。
………
さて、今朝の一社目は、標高480mの小田山神社(小浜町南木指)でした。
何ですか、この立地?! もともとは山道を登って参詣していたものが、
この道を通したことで、取ってつけたようになってしまったのでしょう…。
最初のV字階段を折り返しても、こんな感じ!?
これじゃあ登山ですよ!? 荷物を置いておけないため全て持って登っている私。
これ以上、全荷物を抱えて登るのは無理です…。
それに、ヘビも怖い、マダニも怖いで、社殿まで行くのはやめました。
建物の背後の岩盤が御神体なのでしょうか? 何となく修験っぽい感じ?
日本中、どこにでも道路や線路で形を変えられた神社があるんですね…。
すごすごと退散。苔むした石段を滑らないよう注意して下りました。
上がる時は暗くて読めなかったのですけれど、下りてきて撮ったら
「第二期石段布設工事」と「昭和四十一年」の文字が見えました。
やはり、道路をつけたことで石段が必要になったわけですね。
 
再び国道57号線雲仙温泉へ向かうと、昨日の左折地点に着きました。
昨日はここから山の岩肌が見えたのに、今日は雲がかかっています。
昨日通過した雲仙温泉まで来ました。
この先、733m地点で左折し、国道389号線を吹越(標高920m)まで登ります。
吹越トンネルが見えてきました。
もともと火山島だった半島内とは思えないほどダイナミックな景観です。
トンネルを抜けてもまだ吹越でした。
「伊福」は「吹き・吹く」に接頭語の「い」が付いた形ですから
「吹越」も「伊福」地名と考えています。
ずうっと走っていたい!! と思える雲仙の道でした。
緑のトンネルを標高622m地点まで下り、直進して雲仙神代線(131号線)へ。
標高88mまで下ったら、雲仙グリーンロードにぶつかるので左折。
このあたりからは、クモの巣状に張り巡らされた道をクネクネと
伊福八幡神社のある雲仙市瑞穂町伊福乙へ向かいます。
雲仙普賢岳の麓の扇状台地」という説明そのものの地形が広がります。
雲仙グリーンロードを走っていたら右折できなかったので、高架なのでは?
と疑い、左折して側道を登って直進したら伊福八幡神社に着いてビックリ!?
ちょっと地理が理解できず、キツネにつままれたような感じです。
ただ、当社の敷地も、明らかにこの道路を通すために削られてますね。
いったん正面まで行って鳥居を撮ったら、この不自然さ。
参道ギリギリまで削って道路を通しています。
裏参道はバイクで上がれそうだったので戻りました。
裏参道を登り切ったら、ネコちゃんが驚きもせず寝ていました!!
あれ? バイクが怖くないの? 50cmも離れていない場所から
声をかけてもじっとしています。いつもここに居るのかなぁ?
こちらが社殿。向こうが社務所のようです。
建物の間に見える鳥居の扁額には「稲荷神社」と書いてあります。
かつては、現在削り取られてしまった部分に鎮座していたのかもしれません。
八幡を勧請したのは1573年かもしれませんが、もし「伊古遺跡」と
何らかの関連があるとしたら、それ以前の祭祀があったはず。
「毎年8月29日に風除祭が斎行され」とあるのがその暗示…?
 
また、鳥居の位置と社殿の角度がチグハグで、最初に地図を見た時
いったいどうなってるの?と混乱したものの、実際に地形を見たら、
当社も先ほどの小田山神社と同じく、小高い場所にあって、
のちに道路を通すために丘または山が削られたとしか考えられません。
古社が古社として往古の姿を保つことが難しい時代になってしまったんですね。
ネコちゃんは、少し移動して演奏を聴いてくれていました。
「じゃあね」と言っても、逃げるわけでも鳴くわけでもなく悠然としています。
 
ここからは諫早駅方面へ西進することになるため、網目状の細い道を縫って
再び雲仙グリーンロードへ戻ります。諫早湾越しにみえる「高来」の山々が
素晴らしいですね。この位置で振り返ってみました。
こちらがいわゆる雲仙岳(総称)なのでしょうか?
比較する訳ではありませんが、『肥前国風土記(713)の「高来略記」にあった
景行天皇肥後国玉名郡の長渚浜の仮宮で高来峰を見て、陸続きの山なのか、
別の島なのかと疑問を抱いた気持ちが、僅かながら理解できた気がしました。
 
では、山田城址を探します。
山田城址の東麓、標高30mの川沿いに水分神社(雲仙市吾妻町栗林名)があるんです。
そう、昨日チラッと書いた蛇神社です。
あの左手のこんもりかもしれませんね。
小さく鳥居が見えているので、恐らくあのこんもりが山田城址なのでしょう。
社頭に着くと、ここ吾妻町水分神社も水を司っているとわかりました。
「蛇神社」「お川様」と呼ばれていたというのも納得できます。
社殿の上がり口の左右に、蛇の石造物(狛蛇?)が鎮座しているとか。
これですね。右の方はかなり磨滅してます。
この水分神社は『吾妻町史』(1983年刊)や『山田村史』(1954年刊)に載っておらず、
長崎県神社庁のHPに「水分神社 國之水分神外2柱 村社」とあるそうです。
現在は社殿も小さく、ただ水門の前に鎮座しているだけなのに
良い気が感じられるのは、風が棚田の上を渡って吹いてくるからでしょうか?
雲仙の2つの水分神社は、私の印象としては、吉野神というより
水を分ける場所の象徴として鎮座させられているように感じました。
なお「吾妻町」は、昭和29年(1954)に守山村と山田村が合併してできた吾妻村が
昭和38年(1963)の町制施行で吾妻町になり、2000年に7町合併しているそうです。
のどかな田園風景と豊かな有明海。海人族の大好きな地形だとわかりました。
ここ水分神社からはクネクネと幹線道路を目指し、諫早東高校の手前から
国道57号線を走り、レンタルバイク屋さんまで戻ります。
 
Wikipediaに「宇宙から見た諫早湾(2001年)」が掲載されていました。
白いラインは諫早湾干拓堤防道路です。そこを走って
「雲仙多良シーライン展望所」まで行ってみたいけれど…。
対岸の多良岳(996m)、五家原岳(1057m)、中岳(1000m)などは『肥前国風土記』の
高来郡」であり、現在も「諫早市高来町」「大村市高来町」という風に
「高来」の名を負う地域です。やはりあの峰々に登ってみなくてはいけません。
後ろ髪を引かれる思いながら、再訪のためのプランを練り直します。
諫早湾干拓についてはニュースで耳にする程度で、人の営みも、
火山の歴史も、知らないことばかり。出直します。