

されてきましたが、現在では20以上の山々の総称と言われています。
かつて雲仙岳は「温泉山」と書いて「うんぜんさん」とも読んだそうです。
火山学上は「雲仙火山」と呼ばれ、約50万年前から海底火山が噴火を繰り返して
陸地を作り、約40万年前に北方の陸とつながって半島を作り出しました。
「温泉嶽、一名高来峰。太古日本山と称す。日之神の旧都たるを以て也。
山嶺五峰あり。九州国魂五神の神体なり。」とあるそうです。
ただし、普賢神社の創建は室町時代と書かれているにもかかわらず、
温泉(うんぜん)神社の奥の院と言われても、ピンときませんよね。

しかも満明寺の本尊は、高麗から飛来した4人の王女が、阿蘇大明神の奨めで
温泉神社の祭神は、雲仙山満明寺の本尊・四面大菩薩と符合させて
温泉四面神にしたと伝わっているのです。祭神が高麗の4王女?
高来峰を見て、陸続きの山なのか、別の島なのかとの疑問を抱いて
「この山の神・高来津座(タカクツクラ)」と名乗ったため、当地が「高来郡」と
呼ばれるようになったとのエピソードが書かれていました。
島原半島の古名は「五十猛島」であったとする説もありました。
天正年間(1573-92)には、耶蘇教徒により神社仏閣が焼かれたそうですし!?

渡来系の伝承が多い島原半島。日本の古い歴史など残ってないのかと思いきや、
国内で最も早い縄文晩期に稲作が導入された地域の一つであることを示す
「原山遺跡(原山支石墓群に隣接する農村公園)」や「山ノ寺梶木遺跡」等がありました。

また、半島北辺の伊古村には縄文時代草創期の「伊古遺跡」があって、
水田地帯にあたる場所から細石器集中地点が検出されているそうです。
明治初年、肥前国には以下の郡が存在していました。
南高来(たかき)郡が発足した当時、島原半島には1町36村が在りました。
島原城下、島原村、杉谷村、三会村、三之沢村、東空閑村、大野村、湯江村、
多比良村、土黒村、西郷村、伊福村、三室村、守山村、山田村、野井村、
南有馬村、北有馬村、隈田村、有家町村、有田村、堂崎村、布津村、深江村、
中木場村、安徳村、神代東村、神代西村、古部村、伊古村。
もちろん私はかつて「伊布利村」と呼ばれていた伊福を目指してきたわけです。
その伊福へは明日行く予定で、今日は諫早駅から半島南部の
「原山支石墓群」および「原山遺跡」を目指します。
ところが由緒書には、旧称「四面宮」(おしめんさん)と書かれていました!?
「四面菩薩をお祀りする神仏習合の古社なり」とのことで、
雲仙にはこうした温泉四面神の祭祀が数多くみられるようです。
高麗から飛来した4人の王女が祭神でしたっけ?

往古より鎮座していたのなら、一之宮與止日女神社から勧請した可能性があると
思うのですが、一之宮を遥拝した場合、角度的に10度くらいズレている感じ?

社殿の前に立った場合、雲仙(広範囲ゆえ)を遥拝しているとも言えそうですが。

この立地にして、この社殿!? ちょっとチグハグな感じを否めません。

脚の太い鳥居が特徴的ですね。甲斐国でも鳥居の脚が太かったのですが、
鳥居の背が低く、しゃがんでくぐる感じだったのでちょっと印象が違います。 

そう感じた次の瞬間には、地図に無い道を走って、一気に社殿の位置まで
来ていた私。これまで見たことの無い巨大なアゲハが迎えに来てくれたので。

大きさがわかると驚かれること間違いなしなのですが…。
それ以前に、羽田空港で「目的地の天候は雨💦」と言ってたのに
到着時に「長崎の天気は晴れ☀️」と言われて驚きました。
レンタルバイク屋さんに「このところ毎日、夕方5時過ぎに豪雨に
なるので気をつけて下さい」と心配されながら、曇天の中、
まるで太陽を引き連れるように移動して無事でした。

さて、「うんぜん」信仰の「四面宮」が点在する島原半島にあって
吉野の水分(みくまり)神を想起させる水分神社は異彩を放っています。
はたして両社の祭祀はどのようなものなのでしょうか?
水分神社の本社は吉野ですが…。
「流水を疎通配分することを司る神『くまり』は、配りの意で、
水を適当に配分して、灌漑その他の用に供するという意味の神名。
水分神は祈年(としごい)・祈雨(あまごい)の神として祈祷の対象だったが、後世
『みくまり』が訛って『みこもり』となり、子守明神などと呼んで、子を守り
育てる神として、信仰されるにいたった」。この説明は全国共通ですね。
水蛇ならミヅチの類かも知れませんが、どうでしょう?
雲仙の2社を比較して、吉野の水分神かどうかを考えてみたいと思います。

「雲仙温泉まで4km」という案内板を見ながら意気揚々と山を登っていた時です。

突如「左方向です」とナビの声!?
標高31mの河上神社から、405mの水分神社へ行くのに、下りですって?
(いま調べたら、この地点は460mでした。55m下ったわけですね)

納得できないながらもナビの指示通り進むと、千々石川の支流に沿って走ってました。

少し進むと、右手に社殿らしきものが見えてきました!

また脚の太い鳥居です。雲仙仕様なのでしょうか?

鳥居の横の御神木(?)がド迫力でした。
ちょっと中へ入る勇気がなくて、道端で演奏修行しました。

拝殿の奥が気になったので行ってみると、千々石川の支流の支流が見えました。

水分(みくまり)神=吉野神ですが、かつて修験の地だったのか、単に
川があるから水を司る神社を置いたのかは分かりません。

再び、先ほどの分岐へ戻り、雲仙温泉経由で「原山支石墓群」へ向かいます。

ともかくジグザグ道をひたすら登ってゆきます。

ここは千々石川上流の「鴛鴦(おしどり)池」(別所ダム)で、
昭和45年に造られたそうです。今は使われていない建物が怖い…。

あ、ここ知ってる! 来たことがある!

55年前、宇多津中学校の修学旅行で雲仙温泉に泊まったんです。
ここは明日も通るので、今日は素通り。

温泉街を抜けたら大きな分岐に差し掛かりました。
今日は左に進みます。明朝はここ小浜温泉から右の道を登ってきます。
この地点で振り返ると、初めて火山らしい景色が撮れました!

実は、緑が多くて驚いていたのでした(旅を通して、この一枚のみ!?)。
「原山支石墓群」を目指し、ひたすら下ってゆくと、天草方面が見えました。

いかにも縄文人が好みそうな縄文台地です。

こちらは長崎市方面です。

そろそろ「原山支石墓群」でしょうか?

前方に案内板が見えます。

この案内通りに進んだものの、とんだ無駄足でした。

ぐるっと迂回してやってきたところ、この先、トイレの左手の道になりますが、
金網の扉が閉まっていて、けもの道のようになっていました!?

たしかに「原山ドルメン」と書いてあるのですが?
時間的な問題でも無さそうですし。諦めて「雲仙諏訪ノ池」を目指します。

一方通行になっていて走りやすそうです。が、木が生い茂っていて
池が見えず、やっと一枚撮れました。

諏訪ノ池は、江戸時代に造られたため池なのだそうです。
ただし、時代が新しいのに、821年に空海が改修した日本最大の灌漑用ため池
「まんのう池」とはスケールが違います。「まんのう池」の周囲は約20km、
諏訪ノ池は、目算ですが、周囲5km以下だと思います。
ただ、池の東側一帯に、国内の支石墓遺跡としては最古最大と言われる
雲仙岳に連なる標高250mほどのなだらかな高燥地にある縄文晩期終末の墓地で、
3群のうち、2群60基余が現存。石棺、甕棺(かめかん)、土壙墓(どこうぼ)などの
下部構造のまわりに支石を置き、巨石で覆う構造をもつ。
甕棺は刻目突帯(きざみめとつたい)をめぐらせた縄文晩期土器の特徴をもつ。
また、土器に籾(もみ)の押し形のついたものがあることから
稲作技術伝来と原山支石墓群は深くかかわっていたと考えられる。
この縄文晩期の墓地「原山支石墓群」(標高約250m)西端に諏訪ノ池と、

そして、池を渡って諏訪神社へ行ける!

とはいえ、諏訪ノ池は江戸時代にできたので、諏訪神社の方が古いわけです。

いくら何でも、ため池に向かって演奏修行はできません。

これを見ると、ため池から雲仙普賢岳が見えるようですね。

見えました、この位置ならいいですね! 山頂は雲に覆われていますが、
よくぞここに溜池を造って下さったというアングルです。
これなら演奏修行できます。スコールにも遭わずラッキーでした。
今日は小浜温泉泊まりです。

日没後にホテルから南西の方角を撮りました。その直後、西を見たら
夕陽が沈んだあとの長崎市方面がオレンジに染まっていました!

前身は2010年に建てられ、2021年に閉館した被爆者の温泉保養施設だったそうです。
源泉かけ流しの貸し切り風呂(檜の床材と信楽焼の浴槽)を4つ新設したことで大人気です。

1部屋しかない半露天風呂付客室にも惹かれましたが、
こちらは山側のお部屋なので海の絶景が見られません。

それでも一度は泊まってみたいものですね…。