藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

日本初、真言密教の霊場 (by 空海)

雲仙岳から北上するとき、ずっと眼前に広がっていた高来の山々。
このように美しくなだらかな山容を見たのは初めてです。
これが目に焼きついて離れず、あの峰々に登りたい!! と思いました。
そして、太良嶽山金泉寺の由来を知ったのです。
金泉寺のホームページにこうありました。
 
金泉寺は、空海(弘法大師)平安時代の初め頃(806~07)行基菩薩の遺跡を訪ね、
ここに錫を留め山頂(多良岳 996m)よりやや下った西側の清水のこんこんと湧き出る
所に身の丈四尺余の不動明王と二童子立像を刻んで本尊として建立した寺である。
 
多良山系のシンボルである金泉寺は、空海創建の古刹で、標高860mの
高地に位置する山寺です。住職の常駐には大変困難な場所にあります。
 
唐から帰朝したばかりの空海が日本初の真言密教霊場多良岳で開いた
可能性について、昨日のブログの内容を一部再掲させていただきます。
     ● 大同元年(806)10月、唐から博多津に帰着した空海は、私度僧に課せられた
      20年の留学期間を2年で切り上げたため、大宰府に留め置かれた。
      大宰府滞在中は、呉服町に東長寺を開基したり、宗像大社の神宮寺として
      鎮国寺を創建したりした。
     ● 大同2年(807)から約2年、大宰府観世音寺に止住。法要の依頼に応じたり
      法要のための密教図像の制作などをしていた。
上記から
空海大宰府に滞在していた年代(806~09)と、多良岳真言密教の一大道場
金泉寺を開基したと伝わる年代(806~07)が合致していたとわかりました。
さらに
毎日新聞(2019/10/28)の「明治維新で荒れた寺を再建して10年」という記事で
多良岳は古来、修験道霊場で、最盛期には30余の僧坊に600人もの修行僧が
いた。戦国時代のキリシタン大名大村純忠の頃、金泉寺は焼き打ちにあい、
江戸時代に諫早氏の庇護で再興した」ものの明治維新廃仏毀釈で荒れ果てて
しまったこと、今年が再建後16年目だということを知りました。
 
その金泉寺の隣に「多良岳金泉寺山小屋」があります。
現在の運営者は「多良岳金泉寺山小屋の会」で、
令和3年3月末日に前 指定管理者が終了することになり、存続が
危ぶまれたことから、「癒しの山小屋を残したい」という22名の
方が集って「多良岳金泉寺山小屋の会」を組織されたそうです。
現在の営業は土日祝日のみ、平日の施設利用は不可ですが、
外の水場・売店バイオトイレは利用できるとのこと。
 
いざ、多良山系へ。
先ずは車で山頂まで上がれる五家原岳(1057m)へ行くつもりでしたが、
今日は雲が厚く、恐らく眺望が期待できません。
さっきまで輪郭がわかる程度には見えていた山々が全く見えなくなったので
五家原岳は諦めて、直接多良岳へ向かうことにしました。
「広域林道多良岳横断線」すなわち「多良岳グリーンロード」をひた走ります。
が、結構下りが多くて戸惑いました。
やっと眺望が開けたと思ったら、霞んでいました。
眺望だけが目的だった五家原岳を諦めたのは正解でした。
それにしても、上ったと思ったら下るので、山頂に向かっているのかどうか
不安になるのですが、そういう時に道標を見かけると安堵します。
金泉寺まで4kmの距離まで来ても、まだ下りが多くてビックリです。
修多羅(すだら)の森の案内板もありました。
修多羅(しゅたら)は本来、仏の説いたもの、袈裟(けさ)の装飾などを指しますが、
諫早市ホームページは多良山系の『太良嶽縁起(たらだけえんぎ)』を引いて、
三社大権現(釈迦・弥陀・観音)は元インドのマガダ王国の国王で、座禅岩のある
多良岳の峰から峰へ回峰修行をしました。この修行のことを仏教用語
修多羅(すだら)ということからこの名前がつきました」と説明しています。
「たら」岳の名は、この「しゅたら・すだら」が元になったというわけです。
 
修験者でもない老婆が、気温37℃の今日、往復1時間以上かけて
登山のまねごとをするのはいかがなものかと思いますが、
先が短いため、またの機会があるかどうかわかりません。
ようやく駐車場に着きました。
すでに車が数台停まっていました。人影がないので登山中なのでしょう。
ここが標高723m、金泉寺の標高が860mですから、
徒歩20分で137mも登ることになるわけですか…。
しかし、ここを登るのは私にはハードルが高すぎます。暗くて怖いし。
結局、たいていの場合こうなるのですけれど、この場で演奏修行を
やらせていただきました。すると光が差し込むので怖くなくなります。
私は神楽歌に威力があるのかどうかの実験をしているのですが、
多くの場合、光と風が動いて閉塞感から解放される気がします。
今日は座った時からずっとウグイスが模範演奏をしてくれていたので
とても勉強になりました。ユリがかなり細かく入るようになり、
「ケキョケキョケキョ…」とスムーズに歌えるようになってきました。
こればかりは自室で練習しても効果があがらないんですよね…。
ウグイスに実りのあるレッスンをしてもらいました!
金泉寺まで往復する時間が浮いたので神楽歌『篠波』と秘曲『湯立』を演奏。
 
実は今日一番の楽しみは、諫早湾干拓堤防道路を走って
雲仙多良シーライン展望所へ行くことです。
が、その前に真面目に歴史を追わなくてはなりません。
金泉寺キリシタンの焼き打ちに遭った際、三本尊を背負って難を避け、
3年間岩穴の中にとどまった舞恵法印は、金泉寺再興の兆がなかったため
諫早市高来町神津倉に金泉寺別院を建てて、本尊を安置したそうです。
正式名は金泉寺別院医王寺、神津倉権現神社とも呼ばれています。
 
ナビは高来町神津倉まで行くのに、1時間以上かけて登ってきた道を戻った上、
神津倉までを時速60kmで1時間10分と出しました。時速30kmの原付ならその倍?!
それはないよね…と考え込んでいたら、42分で着くルートを出してきました。
クリックして走り出すと、更に5分早いルートを提示。その分岐が↓ここです。
私は右の細い道を選んだのですが、すぐに後悔しました。
道が悪すぎてスピードを出せないんです。石ころも多いし…。
それに途中で選択ミスをして行き止まり↓になってしまいました!?
すごすごと「多良岳グリーンロード」に戻ったものの、これが
無駄に広がりのあるルートゆえ、なかなか先が見えてきません。
山茶花高原ピクニックパークまで来ました。ここを右折します。
数分下ってから、多良岳方面を撮ってみました。
え~~~?! もう、こんなに遠ざかっていたんですね…。
ふと燃料表示を見たら、ガス欠寸前の数値を指し示しています!?
高来町神津倉まではまだ10分以上かかりそうなので、金泉寺別院
着いたら即、207号線まで下りてガソリンスタンドを探さねば!
突然、視界が開けました! かなり下りてきてたんですね。
でも、すぐに視界が狭くなります。山中ではほぼ眺望がなかったので
とても楽しいとは言えない状態で走ってました。その数分後!?
正式名を金泉寺別院医王寺、地図上は神津倉権現神社
たしかに神仏混淆のイメージがありますね。
金泉寺キリシタンに焼かれ、本尊を抱えて逃げ延びた大変さは
徒歩で移動するしかない時代のことゆえ、想像もつきません。
バイクで下山しても結構な時間がかかりましたし。
 
さあ、ガソリンを満タンにし、いよいよ諫早湾干拓堤防道路を走ります!
これが諫早湾干拓北部排水門ですね。
走り始めたら止まれないので、雲仙方面を撮っておきます。
途中、唯一停車できる雲仙多良シーライン展望所から多良岳方面を撮りました。
干拓堤防道路からの眺めはホントに素晴らしいですね!
この景色だけで大大満足の旅となりました。
湾内ですから、トンビもたくさん舞っていました。
ただ、今朝、ホテルを出た時点でトンビが頭上を旋回していたので、
今日はほぼ全行程をトンビと旅しました。昨日はクロアゲハだったし、
倭琴の旅ではさまざまな生き物と出会えることも楽しみの一つです。
あっという間の8kmでした。また走りたいけれど?
 
島原半島へ渡ったのは、7/12にまわり切れなかった場所があったからです。
先ずは、現在は鳥居が島原鉄道の線路際になってしまった釼抦神社へ。
鎮座地の現住所は雲仙市吾妻町本村名ですが、明治22年(1889) 4月1日の
町村制施行によって南高来郡守山村が発足するまでは三室村だったそうです。
古代、「みむろ」は、「御室・三室・三諸・御諸」などと書かれ、『琴歌譜』の
《茲都歌》の歌詞に「みもろに築(つ)くや玉垣 築き余す 誰(た)にかも依らむ 神の宮人」と
あるように、神の籠る室というような意味を持つとされています。
ただ、そのような雰囲気は、私ごとき者には感じとれませんでした。
この三室村の鎮守釼抦神社について長崎県神社庁公式サイトはこう書いています。
島原に釼抦神社というのがある。現在は「けんぺい」と読むけれども、
本来の読みは「たかひ」らしい。主祭神の武甕命は、武甕槌命・建御賀豆智命・
建雷命などいろいろ書かれているが、ほかに建御雷之男神ともいい、「建」は
猛だけしくて勇ましい様子を表しており、「御雷」は文字通り神鳴り(雷)である
といわれている。この神はまた、出雲国の国譲り神話の立て役者でもある。
鳥居の扁額も、雲仙市指定の文化財としても神社
表記されているのに、神社と誤記されることが多いのは、
宮崎県東諸県郡国富町剣柄(けんのつか)稲荷神社があるからかも
知れません。創建が景行天皇12年とも、32年ともいわれ、
古くは剣柄稲荷神社本庄稲荷神社と称したとのことですが、
そのような時代に稲荷社が存在していたでしょうか?
ともあれ、有明海に北面する海辺の鳥居から道なりに進むと、
石垣の上に釼抦神社があって、その鳥居は西面していました。
俗に、鳥居と社殿にズレがある場合、祭祀が変わっていると言われますが?
 
高来の里の地名や固有名詞は独特ですね。長崎県神社庁公式サイトも
御雷(みかづち)」を伊福部神の象徴たる「神鳴り=雷」と書くとは!?
南高来郡三室の地から東に、古部~伊福~伊古と並んでいたとなると
瑞穂町古部乙の弘法大師へも行ってみるべきでしょうね。
弘法大師としての祭祀はさほど古いものではなさそうですが、
もっと古い祭祀があった場所の可能性が疑われます。
 
先ほどの長崎県神社庁公式サイトに
神の依るところを「神籬(ひもろぎ)」というが、「神籬」の「ひ」は
「火」や「日」を表し、「霊」を意味しているとされ、その「霊」を守る木が
「神籬」で「日守木」とも書くといわれている。
隣の瑞穂町には日守神社があるが、このように「三室」や「日守」の
地名があることからすれば、古代には神霊が宿っている聖域として、
何らかの祭祀が行われていたのではないだろうか。
とあるものの、日守神社が見つかりません。
村名や町名が変わり、古い祭祀が失われてしまった今、
少しでも引っ掛かる場所があればヒントを求めて足を運びたいので
半島の北辺から雲仙岳方面へ南下します。
雲仙市瑞穂町伊福乙に伊福八幡神社、その南南西約2.4kmの古部乙に弘法大師
諫早湾を挟んで、佐賀県藤津郡太良町伊福甲に太良戸口神社、その南約4kmの
太良町糸岐に弘法大師 奥の院があるのは、はたして偶然なのでしょうか?
 
調子よく走っていたら、ここで突然「左折です」と言われました。
この先はいったん下りたら原付では絶対にのぼれないほどの急勾配です。
しかし、ここまで来たら行ってみるしかありません。
うわッ!? 今度は急勾配の登りでした。
弘法大師と名づけられた場所は思いがけない立地が多いのでしょうか?
ふだんは人の気配の無い場所なのでしょうか?
巨大なカラスが迷惑そうに喚きながら、10羽ほど飛んでゆきました。
右手を見ると、登ってきた右側の道より、同じ高さの道を直進すべきで
あることは明白でした。直進したら、あっけなく来た道に戻れました。
いつもナビに騙されてしまう方向音痴の私です。
 
長崎県神社庁公式サイトにあった釼抦神社の本来の読みは「たかひ」らしいとの
記述について考えてみたいのですが、『和名類聚抄』に高来は多加久(たかく)
訓むとあり、高来・高木・高城などと書かれます。伊福村や三室村があった時代、
島原半島一帯は南高来郡でした。それを「たかひ」の「たか」としましょう。
「ひ」を広矛とする説が見つかりました。
広矛がどういう目的で作られたのかは不明で、権威や富の象徴だったかも
しれないとしつつ、「たかひ」を祭祀の道具と推測されています。
金属で作られた広矛を手にもつというのは「釼抦」の名前そのものです。
神道においては鏡も重要だが、広矛を「たかひ」とした部族には
天神信仰よりも雷神信仰のイメージがあると書かれていました。
雷神=金属神=伊福部神ではありませんか!?
 
はい、私はあくまでも多良岳太良町といった「たら」を
「タタラ」地名と考えています。
しかも空海なら、密教の道場を開くにあたって、
元々仏教の経典を意味するサンスクリット語の「スートラ」が転じて
僧侶の袈裟と袈裟を繋ぐ装飾用の組み紐を指すようになったこと、
多良山系の峰から峰への回峰修行のことを仏教用語で「修多羅(すだら)」と呼ぶ
ことなどを民に教え、山を多良岳と名づけて、古来タタラ製鉄に携わってきた
伊福部氏と紐づけすることができたのでは? と妄想しているわけです。
 
長崎県神社庁公式サイトにあった
瑞穂町には日守神社があるが、「三室」や「日守」の地名があることからすれば、
古代には神霊が宿っている聖域として、何らかの祭祀が行われていたのではなかろうか。
を読むと、雲仙市瑞穂町古部乙の弘法大師は要件を満たしていると感じます。
 
神の依るところを「神籬(ひもろぎ)」というが、「神籬」の「ひ」は「火」や「日」を
表し、「霊」を意味しているとされ、その「霊」を守る木が「神籬」で「日守木」とも書く
との記述も、古木に囲まれた弘法大師そのものです。
石組のある右上の空間には、社殿などではなく、出雲や松江で見た
↓「ひもろぎ」がピッタリ…と感じます。
今回の旅は、昨日の弘法大師 奥の院も、今日の弘法大師
ハードルが高かったのですが、わがふるさと讃岐の大先輩
空海が九州でも活躍されていたことを知り、
もっともっと学ばなくては…の思いを新たにしました。
いつもお見守りくださり有難うございます!