初めて「東かがわ市」に足を踏み入れました。
が、私など「東かがわ市」って言われてもピンときません。
大部分の地域は明治期まで千年以上、大内(おほち)郡と呼ばれ、
明治以降は大川郡となりました。
との伝承を耳にし、やってきました。
これは…古社の雰囲気が漂っていますね。
↓おおお、ニギハヤヒの天ノ磐船ですね?!
もしかして物部系の神社?
との疑問を抱えつつ帰ろうとしたら、偶然にも宮司さんがお見えになり、
「氏子さんの庭にあった船形の石を寄贈したいと言われて移したんですよ」
と教えて下さいました。経緯がわかってよかったです。
落ち着いた拝殿や本殿を見るべきところですが、
空海(774-835)が掘ったという閼伽井が気になります。
左手に「イノシシやサルが出没するため帰りには必ず閉めて下さい」と
書かれた格子戸がありました。
まるでわざわざ壊したかのような看板ですね…。
「はい、閂を外して演奏修業させていただきます!」
水神社の扁額。ただの井戸ではないわけですね。
今や井戸は蓋をされたのでしょうか?
ここより奥へは行けないので水神社の前で神楽歌を演らせて頂きました。
さぬき市の真清水荘では敷地内をサルが走っていましたが、
ここでは何も出現しませんでした。
恐らくここが空海の閼伽井だと思いますが、そうでなくても
参道からここまでの空気がきれいで森林浴気分で演奏できました。
再び社殿に戻り、ぐるっと一周していますと
本殿の奥に祭神の「御父宮」として孝霊天皇が祀られていました。
当たり前ですが、日本神話を踏襲しているわけですね…。
友人と駐車場に向かって歩き出した時、
神職らしき御方が階段の下からあがってこられました。
親しく声をかけて下さり、社地から出土した土器や弥生米、
古文書の写しなどを見せて下さるとのこと!?
讃岐国一宮の謎についてお訊ねしたら
「大水主大明神和讃」の写しを指で追いながら説明して下さいました。
和讃は平安時代以降のものですが、こちら大水主大明神の伝承を謳った和讃は
ルビが現代かなづかいだったので、さほど古いものではないかもしれません。
私には和讃よりもずっとずっと古い磐境祭祀の方が重要です。
大内宮司曰く
「本宮山を40分ほど登った山頂に7畳ほどの大きさの磐境があり、
2300年ほど前から古代祭祀が行なわれていたと考えられている」とのこと。
後日(2016.10.27)同行者を得て、このくじら岩まで登りました!
大内の地名の元となった社家の大内宮司様、貴重なお話と
素晴らしい太鼓を聴かせて下さり有難うございました!