藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

阿波(粟&長)国「一ノ宮」論社

昨日はギックリ腰2日目の身には盛りだくさんだったので
今日は起き上がれないかも? と不安でしたが、何とか歩けました。
しかし朝一番から、また階段!?
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私が勝手に長ノ国の首都!? と妄想している「佐那河内」にある朝宮神社です。
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祭神は天照皇大神の荒魂たる瀬織津比咩。
鎌倉時代の「中臣祓訓解」という大祓詞の注釈書にこうあるそうです。
瀬織津比咩神 伊弉那尊ノ所化ノ神。名八十枉日神(ヤソマウツヒノカミ)是也
天照大神ノ荒魂(アラミサキヲ)荒祭ノ宮ト。除悪事ヲ神也。
随荒天子ハ焔魔法王所化也。
 
このあたりのことについては私なりに考えてはきましたが、
まだ筋道を立てて説明できるほどには纏まっていないため他日を期します。
 
本日はふだんなら避けて通る「一ノ宮論争」に向き合おうかと…。
律令制以前の「阿波」は忌部(いんべ)氏が活動した北方の粟国(あはのくに)
三輪系の海人(あま)の活動した南方の長国(なかのくに)に二大別されていたとされる。
なお、吉野川上流の西部に別の1国を考える阿波3国説もある。
令制下、2国(あるいは3国)は合一し、名方(のちに名東・名西)、板野、阿波、麻殖(おゑ)
美馬(みま=のち三好が分出)、勝浦(かつら)、那賀(のち海部が分出)の7郡がおかれる。
世界大百科事典(第二版)
 
延喜式神名帳』にある天石門別八倉比売神(阿波国 名方郡鎮座)の論社です。
由緒を記した看板が打ち捨てられていてビックリ!?
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山の中に長い参道があって雰囲気はとても良かったのですが…。
まさか神社の経営者が変わったわけではありませんよね?
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しかし当社の歴史は簡単には理解できそうにありません。
社伝によれば、「大宜都比売」が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気多気町丹生)から
馬に乗って阿波国へ来て、この地に粟を広めたのだそうです。
 
私が知りたいのは、それ以前に神山にはどんな民族が居たか?
なのですが、順を追ってゆかないと出発点にすら辿り着けません。
当社が上一宮大粟神社と名乗ったのは明治28年(1895)で、
それ以前の社名は明治3年(1870)に改称した埴生女屋神社でした。
埴生女屋神社国史見在社で 『日本三代実録』元慶7年(883)12月28日条に
その名が見えます。
近年の資料に住所は「徳島県名西郡神山町神領」とあるので
当社が明治3年に国史見在社を名乗ったのは確実でしょう。
では、それ以前の社名は?
 
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上一宮大粟神社の拝殿と画像右端の石段の上にある豊玉姫を祀る社殿の間に
「天の真名井」という苔むした井戸があります。
「天の真名井」と言えば、丹後宮津の一ノ宮(この)神社の奥宮です。
その祭神 豊受大神が伊勢 内宮の天照大神の食事を司るため外宮に祀られたことと
当社の祭神「大宜都比売」を付会させようとの意図が見え隠れしている気が?
 
上一宮大粟神社の祭神「大宜都比売」は『古事記』に出ています。
 
如此言竟而御合、生子、淡道之穗之狹別嶋。
次生伊豫之二名嶋。此嶋者、身一而有面四。毎面有名。
故、伊豫國謂愛比賣、讚岐國謂飯依比古、粟國謂大宜都比賣、土左國謂建依別。
 
最初に生んだ子が、淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま)
次に生んだのが、伊予之二名島(いよのふたなのしま)
伊予之二名島は身体が一つなのに顔が四つあり、それぞれに名前がある。
伊予の国は愛比売(えひめ)、讃岐の国は飯依比古(いひよりひこ)、
粟の国は大宜都比売(おほげつひめ)、土佐の国は建依別(たけよりわけ)
 
ただし当社では「大宜都比売」を稲荷と習合させてもいるようです。
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上一宮大粟神社では「オホゲツヒメは黄金の狐を遣わして国の危機を救う」と
言い伝えられており、本殿が稲荷社のように真っ赤なのはオホゲツヒメの姿が
大きな狐だからで、当社は全国の稲荷神社の元社とも言われているそうです。
やれやれ…。
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もう一つの論社「徳島県徳島市一宮町」にある一宮神社は、
承久の乱(1221)後、鎌倉幕府が佐々木氏に代わる阿波守に
小笠原長清を任じたことで事情が変わってゆきます。
小笠原長清は上のブログで行った南アルプス市「小笠原」を領地とし、
小笠原を名乗ったのは元暦元年(1184)以降でした。そのせいか、
建久6年(1195)まで「加賀美」と「小笠原」の名乗りが混在していたそうです。
その長清が阿波守に着任してから117年後の1338年、阿波国守護 小笠原長宗が
一宮宗成を滅ぼして阿波国最大級の山城を築いて一宮城としました。
以後、一宮城を居城として一宮神社の分霊を城内に奉祀した小笠原長宗は
一宮氏を称し、一宮長宗の名で神職も兼ねたそうです。
 
ここまで書いても全容が明らかにならないのですから困りものです。
と言いつつ、次は古墳へ行き、草むらに座り込んで演奏する怪しい女!!
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昨日琴柱を一本無くしたので 4絃で弾いてます。
こういう時、譜面を読み替えて5絃を4絃で弾けるのが唯一の才能かな?
 
ここ阿波史跡公園には矢野古墳、宮谷古墳など様々な古墳(気延山古墳群)があります。
そして『延喜式神名帳』の天石門別八倉比売神(阿波国 名方郡鎮座)
比定されている古社八倉比売神も古墳群の中にあるのです。
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この階段に恐れをなしまして、M先生に画像を撮ってきてもらいました。
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一ノ宮論争をしているわりには仰々しさのない社殿ですね。
あくまでも鎮座地の杉尾山を御神体としているからでしょうか。
ただし、はじめは気延山(212.2m)の山頂に鎮座。
のちに気延山南麓尾根の杉尾山腹標高110m付近に遷座したのだそうです。
御神体山って、変わる性質のものですか?
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ところで、「八倉比売」ってどなたです?
創建年代は不詳ですが、「大日靈女(オホヒルメ)命」が祭神と書いてあります。
「八倉比売」=「大日靈女命」=「天照大神」ですか?
天照大神」はヤマト王権における名称なので「大日靈女命」の方が古いのでは?
「大宜都比売」も『古事記』に出てくるのですからヤマト王権における名称ですよね?
すると上一宮大粟神社より当八倉比売神の祭祀の方が古そうですが?
 
天石門別八倉比売神は承和8年(841)正五位下の神階を授けられ、
元暦2年(1185)に最高位の正一位となったそうです。
しかも上の「略記」では、安永2年3月(1773)の古文書の
「気延山山頂より移遷、杉尾山に鎮座してより二千百五年を経ぬ」
の記録から逆算して、遅くとも四世紀初めの古墳発生期に遷座
完了していたとみています。
確実なのは寛保年間(1741-43)に杉尾大明神と称したという記録かと
思っていましたが、このあたり客観的な資料が出ると有難いですね。
 
現社名天石門別八倉比売神に改めたのが明治3年(1870)といっても
特に式内社としての決め手が示されたわけではないようですし、
実態は杉尾山を御神体とする「杉尾神社」と言えそうですが?
 
一宮論争にせよ、式内社論争にせよ、
現状からすっきりと推し量れないこと自体が問題なのであって、
むりやり決着させるのは百害あって一利なしという気がしてなりません。