藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

JALの手荷物事情

徳島阿波おどり空港へ向かってます。今日は徳島泊まりです。
楽器を預けることを考えるとANAを利用したいところですが、
ちょうど良い便がなく、渋々JALにしました。
JAL羽田空港ですら"楽器ケース"が無いことが多い!!
ANA対馬のような地方空港でも確保しておいてくれます。
行きに"楽器ケース"を使えば帰りも使うと考えて
お願いしなくても用意して下さるのです。
 
逆に、JALでは殆どお目にかかれない上、過去に一度あった時には
ケースがボロボロで、入れる意味があるのか? と思ったほどでした。
JALでは基本的に"楽器ケース"の数が少ない上、あってもボロボロ…。
お使いにならない方には関係のないことを愚痴って申し訳ありません。
 
徳島空港から、今日は鳴門方面をまわります。
最初に、多分ダメだろうと予測していた阿波井神社
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おおお、あれが20分に1本と書いてあった渡船乗り場ですね。
ところが、時刻表を見ると、土日は15:10の次が16:00!?
帰りの便の問題もありますので、ここは諦めざるを得ません。
病院の白い建物の右に石の灯籠のようなものが見えます。
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きっとあそこが神社の入り口なんでしょうね…。
 
という次第で、瀬戸町堂浦から瀬戸内海沿いの国道11号線を目指しました。
昔、私の宇多津小学校時代、海沿いの旧国道11号線
隣接して校舎が建っていたので何となく懐かしい感じ。
 
徳島駅から遠いため今まで行けなかった鳴門市北灘町粟田の葛城神社へ。
うわぉ!? 瀬戸内海です!
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葛城神社国道11号線から少し南下します。
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神話によれば、雄略天皇に敗れて逃げてきたゆえ山へ入ったってこと?
よくわかりませんが、当社の南にある天円山(あまがつぶやま)を越えた南麓に
同名の葛城神社が2社あり、どうやら古墳の上に建っているらしい…。
 
先ずは天円山北麓鎮座の葛城神社です。
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普段あまり人が来ないので驚いたのか、私が池を撮ろうとしたら
白鷺と青鷺が乱舞し始めました!!
ほんの数分で落ち着きましたが、10羽以上が舞う様子は心踊りました。
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池の左側の参道を進み、葛城神社拝殿への階段を上ります。
ううむ…菊水の紋!?
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寄進された石碑などから、とても崇敬者が多い印象を受けました。
社殿の奥の道を登ると奥宮があるようなことが書かれていましたが、
一人で山へ登って遭難!?しても困るので(実は経験あり)やめておきました。
 
ここから、来た道を戻って天円山の南麓へ。
鳴門市大麻町姫田の葛城神社は天円山を背に南面していました。
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境内から古墳時代の遺物が発掘され、周辺に幾つもの古墳が確認されている
だけでなく、貝塚跡まであるそうです。
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現存するのは拝殿と本殿、そして小さな農村舞台ですが、
参道の途中に残る大木の下に六角柱型地神塔(?)がありました。
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道路を挟んだ右側には庚申塔がありました。
往時は、吉野川対岸の勢力との前線基地だったのかも?
 
そう感じたのは、同緯度にもう一つの葛城神社があったからです。
鳴門市大麻町大谷の葛城神社本殿裏には
横穴式石室を持つ直径15mの円墳が現存しているそうです。
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今や丸裸の境内です。周囲は舗装路。
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本殿裏はこんな風ですが? これが円墳でしょうか?
一言主命を祭神とする葛城神社古墳は、6世紀頃の築造と言われていますが、
竪穴式石室の痕跡があることから、それ以前からの祭祀も指摘されています。
現在の大麻町大谷は
安永9年(1780)に四国八十八ケ所霊場に来た豊後の陶工 文右衛門が
当時の大谷村山田の里に伝えた轆轤技術によって素焼窯を築いたという
大谷焼」の里となっているようです。
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本殿横の石を拡大したら「大谷氏」と刻まれた石碑が!?
わからないことだらけながら
当社の西南に宇志比古神社があるというので立ち寄りました。
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運転手さんに「ここですよ」と降ろされたものの、私は
左手の建物が気になっていました。
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しかし、高齢の運転手さんで、耳が遠いのか無視されてしまいました。
やむなく登って行くと、大変な古社です。
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拝殿、幣殿とも大きく、本殿も立派です。
ただし由緒は不詳で、明治までは八幡神社と称していたそうです。
『明治神社誌料』には
「昔八坂神社と称しており“牛ノ宮”と呼ばれた祠だったのではないか」とある
ものの、明治3年9月3日に民政局の通達で宇志比古神社に改称されたとのこと。
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さっき気になった建物は、この門でした。
神紋は“橘”ですが、拝殿の瓦は“違い矢筈”で、
『全国神社名鑑』では“矢筈”となっているそうです。
こうなると、板東駅に近い同名の宇志比古神社へも行ってみないと!
 
更に西へ向かう途中、突如「古墳?」と感じ、少し引き返してもらいました。
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駐車スペースから一人で狭い舗装路を登って行くと古墳群が!?
その古墳群を守るかのように簡易な社殿も建てられていました。
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社殿の裏が1号墳でした。
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「天河別神社古墳群」はめっけものでした。
歩き回ったのち演奏修行もして大満足!
しかし、こんな場所にも“世界平和”云々が?
と思って撮影しようとしたらアゲハ蝶が私の周囲をぐるぐる回り始めました。
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この古墳群以外の場所では黒アゲハがついてきてました!!
 
そして最後の宇志比古神社
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すでに児童公園のようになっていました。
そして、撮影している私の後ろは高徳線の線路が走っています。
鉄道計画があっての八幡神社宇志比古神社の改名だったのかもしれません。
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当社は、実際には宇志比古・宇志比売神でした。
『式社略考』では祭神を天忍人命としており、
オシヒト→ウシヒトの変化を疑う人もあるようです。
住所は「牛ノ宮東」でした。