藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

ミシャグジと磐座

日本書紀』にこうある、『続日本紀』にこうある、と言われても
私が知りたいのはヤマト王権以前の日本のかたちであり、縄文のすがたです。
いくら記紀を読んでも、神社の由緒書を読んでも、その答えは出ません。
古代、人はどんな場面で歌い、どんな場所で踊ったのでしょうか?
 
今回の旅では「磯部・伊勢部」に関する手掛かりが得られない中にも
新しい発見があり、ますます縄文への興味が湧いてきました。
その一つがいわゆる「ミシャグジ」です。
 
ミシャグジ」とはヤマト王権以前の日本古来の神とされています。
柳田國男氏はこれを先住民がヤマト民族との村境や峠などに立てた境界の神、
道祖神すなわち塞の神(サヘノカミ・サイノカミ)と定義しました。
ミシャグジ」には悪霊や疫病の侵入を遮り、通行の安全を司るなど
地方ごとの伝承があり、シャクジ、サクジ、オシャモジ、ミシャグチ、サクチ、
サグチ、サクジン、オサクジン、オシャグチ、オミシャグチ、サゴジン…
と呼称も多様に変化しています。
形状も、小さな道祖神から社殿のない縄文の森までさまざまです。
 
そんなつかみどころのない「ミシャグジ」が、突然目の前に現れたのです。
 
10日の午後は「伊勢」と「志摩」の違いを感じるべく伊勢市をまわる予定でした。
が、午前中に行った伊射波神社が素晴らし過ぎて志摩国を離れる気が失せました。
それでコーヒーを飲みながら地図を見ていたら、近くに河内神社があったのです。
あれ? ここにも河内物部が? と興味が湧き、タクシーを呼びました。
河内神社があるということは悪党と呼ばれた河内の人々が来た場所ですか?」
「いえ、平家の落人の里と言われてます」と話していたら赤崎から数分で到着。
(↑この会話には500年以上の時間のズレがあります…)
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タクシーを下りる瞬間、川向うのこんもりが目に入りました。
「あ、あの鳥居は何でしょう?」「わかりませんが、車で行けますよ」
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視力0.05のわりには目ざとい!?
行ってみると鳥居の足に「社宮神」と書かれていました。「ミシャグジ」様だ~!!
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小さな祠が建っていますが、どう見ても奥の磐座が御神体ですよね。
木に巻かれた注連縄(?!)にも特徴があります。
よもやここで「ミシャグジ」様に出合えようとは…。
古代のままとは言えないまでも磐座祭祀の片鱗を見られました。
 
実はこの前にN様と海鮮丼を食べ、赤崎神社まで送って頂いてお別れしました。
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古代の地形はわかりませんが、河口の重要な位置に鎮座していたと思われます。
志摩国一宮」の投稿に引用した『外宮摂末社神楽歌』中の「悪志赤崎」です。
ヤマト王権が「悪」と呼ぶからには朝廷にとっての先住民だったはず。
ただし現在は伊勢神宮を構成する125社のうち鳥羽市に鎮座する唯一の神社で、
いつの頃からか伊勢神宮豊受大神宮(外宮)末社になっていました。(↓社殿でわかる)
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一説に阿久志神社赤崎神社があったとされますが、現在「あくし」の名は
加茂川を挟んだ対岸の「安久志集会所」、その北の「あくし公園」に見られるのみ。
他方、伊勢国度会郡悪石領であったことから「悪石赤崎」と称されたとの説も。
地名って実に興味深いですね…。
 
伊勢「津」藩士伊賀上野城代をつとめた藤堂元甫(1683-1762)
伊勢・伊賀・志摩3国に関する『三国地志』の編集を手がけ、「飽石神」の項に
「安楽島(あらしま)の西、飽石(あくし)の海岸にある神石で、俗に石子と呼ばれる
巨巌が、古い時代、船の航行の妨げになるとして切り平らげられ、
今は海底にあるという。飽石は悪石の古称である」と書いています。
 
ただこの周辺は伊勢国度会領になったり、志摩国になったりしたので
「知久利ケ浦七所、悪志九所」といっても一概にどこの国とは言えません。
 
「知久利ケ浦」に関しては、鳥羽からパールロードシーサイドライン
石鏡(いじか)へ向かう途中に通る「麻生の浦大橋」の手前とする説があります。
ただし「麻生の浦」は、大化の改新(646)以前は伊射波神社の御厨でした。
「ちくり」は「みくり」の転訛とも言われ、それゆえ伊射波神社の鎮座する
安楽島の前海も含まれていたとする説が一般的なようです。
その後、伊射波神社の御厨は斎宮の御厨となり、
長和2年(1013)には斎宮から伊勢の神宮へ寄進されました。
 
今浦に明治40年12月に境内社や村内小社を合祀して改称された浦神社があります。
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ちょっと度肝を抜かれる規模なのですが、画像では伝わりません…。
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高さ百尺余りの切立った大きな一枚岩の御神体の下に本殿があるとのことで
急な五十段の石段を登ってゆくと、拝殿前が非常に狭く、足がすくみました。
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怖々ふり向くと狛犬が自然石? 巨大な岩壁には海蝕洞穴も多くみられます。
拝殿の左(断崖絶壁の上)に、人一人がやっと歩ける細い砂利道があったので
和琴ケースを背負ったまま(!?)「目薬の水」を見に行きました。
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古来、当社は里の産土神「浦の権現さん」と呼ばれ、主祭神の安曇別之命が
女神なので乳の神様として崇められてきたそうです。浦の地に「安曇」ですか…。
「安曇」族なら対馬に「浅茅(あそう)湾」、丹後宮津に「阿蘇(あそのうみ)」があり
ここ「麻生(をふ)の浦」も海人族の好む地形という点で共通しています。
 
「麻生の浦」が古歌に多く詠まれたのはこの浦に一年ごと交互に片方の枝のみ実の
なる梨の木があって「方枝梨」と名づけられ、都で話題となったからのようです。
 
古今和歌集』巻第二十「大歌所御歌」1099「伊勢歌」
をふの浦に 片枝さし被ひ なる梨の なりもならずも 寢て語らはむ
 
↑詠み人知らずの「伊勢歌」を本歌取りした後鳥羽院宮内卿の和歌がこちら↓
片枝さす をふのうらなし 初秋に なりもならずも 風ぞ身にしむ (新古今集281)
 
いよいよ石鏡の第一ホテルに近い石鏡(いじか)神社へ向かいます。
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漁師町はどこの神社も本当にきれいにされていますね。
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社頭から左へ進む道。石鏡町内の集落や境内地にはかなり高低差があります。
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こちらは農村舞台でしょうか? 「石鏡座」とあります。
 
「石鏡」は『和名抄』郡の部に志摩国答志郡郷名に古名「伊加之郷」、
のちに「伊志加」とあります。
『大神宮諸雑事記』『神宮雑例集』『神鳳抄』などには「伊志加の御厨」。
「イ」を接頭語と考えると「シカ」です。
手前の「今浦」の地に安曇別之命を祭神とする浦神社があるのは、
2017/2/11の「行方の国栖」に書いた
「今来の神=志賀海神社今宮=アヅミノイソラ」と重なります。
 
そしてパールロードシーサイドラインの東端には「シカ」の地がありました。
 
まだまだ掘り起こさなくてはならないことばかりですが、常陸鹿島と同じく
志賀の海人が移住した可能性を感じた沿岸部でした。