藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

常磐炭田あたり

磯原から西へ向かい、北上して大津港へ至る道に
神社が点在しているのを不思議がっていたら、運転手さんが
「この辺りは常磐炭田として栄えていましたからねえ」と教えて下さいました。
常陸国水戸藩磐城平藩をとって常磐炭田
1870年から大規模な炭鉱開発が行なわれたのだとか。
 
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こちらは「茨城市関南町関本下」鎮座の大山祇神社
…と言っても稲荷の方が目立ちますが。
裏へまわってみたら、もっと凄いものが!?
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常陸国でよく見かける中国風の置物。白いのはまさかのマリア像?
 
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こちらの熊野神社は華川牧場の手前に鎮座してました。
「華川牧場の"花園牛"は高品質で、料亭などからの指名も多いそうですよ」
と運転手さんが教えて下さいました。いわゆる常陸牛の中の銘柄牛?
 
上の2社は通りすがりに撮っただけで、目的地は「北茨城市華川町上小津田」
佐波神社こと佐波波地祇神社でした。
長年気になっていたので、1社のためだけに来ました。
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実は当地へは西に見える山々の間から遷座してきたと伝わります。
それが地元で「佐波山」と呼ばれる場所で、
延暦20年(801)坂上田村麻呂が兵を休めて戦勝を祈願し、
永承7年(1052) 8月には源頼義が戦勝を祈願して和歌を奉納したそうです。
その「佐波山」から現社地のある塩原山へ
佐波波地祇神社遷座してきたのは永禄12年(1569) 8月20日でした。
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かなり調べたものの、元の鎮座地はわかりませんでした。
それでも地形を見に来ようと思った理由は社名にあります。
今は「佐波=さは」を現代かなづかいで「さわ」と書く人が圧倒的多数です。
ですが、旧社名「佐波波」となると、「さわわ」というワ行音だけでなく、
「さばば」とバ行音で読んだり書いたりするかもしれません。
その一人が私で、「さばばちぎ神社」と読んでここまで来ました。
 
「さは」とくれば、私は志摩国一ノ宮伊射波神社を思い浮かべます。
「いさは」の「い」を接頭語とすると、「さは」なので。
以前読んだ本に、山に登った海人族を物部と呼んだと書いてありました。
もちろん徐福ら渡来系物部が活躍する前のことです。
佐竹氏の金で知られた常陸国には、多賀山地の変成岩中の含銅硫化鉄鉱床から
金・銀・銅・亜鉛などを採掘した日立鉱山などがありました。
その常陸国へ鉱山技術をもつ物部の大規模移住があったとしたら
当然ながら海人族の斎く神々が奉祀されているはず…。
それ以前に関東では常陸国でだけ海人族の五弦のコトが出土しています。
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最初の階段に続く長い石段を登ったら、本殿と拝殿が真横に並んでいました!?
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こんな配置、見たことがありません。
しかし、正面に回ると、西の旧鎮座地を拝する形になるとわかりました。
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ん? 拝殿の右手に石段が!?
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上は山の斜面をぐるりと抉った平地で、石祠が置かれていました。
恐いので上がりませんでしたが、もしかすると佐波波地祇神社
遷座してくる前から鎮座していた氏神さまかも知れません。
右手には参道らしき道がありました。
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この上に何かあるとは思えないのですが? 筍狩りとか?!
 
帰宅後、調べたら、元々長い石段の正面に拝殿、その奥の石段の上に
本殿が鳥居と同じく南面して建っていたそうです。
それを昭和45年に現在地におろし、南面から東面に変えたのだとか。
なぜ?
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結局、何もわからないまま帰途につきました。
 
勝田駅から常磐線に乗る前に駅近くの「武田氏館」へ行ってました。
何度も通った甲斐の、武田氏の発祥の地が勝田だったとは…!!
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武田氏館(たけだしやかた)の紹介文より
 
ひたちなか市武田は戦国時代の名将 武田信玄で知られる甲斐武田氏の発祥の地。
平安時代末期(12世紀初め頃)、源 義家の弟 義光が常陸国への進出を図り、
長男 義業(よしなり)久慈郡佐竹郷(常陸太田市)に、
三男 義清を当地(那賀郡武田郷)に土着させました。
義清は地名をとって武田を名乗り、武田氏の始祖となりました。
けれど、義清とその子 清光は武田郷周辺の豪族との勢力争いにおいて
行き過ぎた行為を朝廷に訴えられ、甲斐国に配流されてしまいます。
義清父子は新天地で甲斐源氏発展の楚を築き、17代の後に信玄公を輩出しました。
 
 
実は地図に読めない社名があったので立ち寄りました。
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無い…!!
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何と、2013年09月11日の放火により、本殿拝殿とも全焼していました。
その後、氏子の皆さんの御尽力で2018年7月28日に再建されたそうです。
社名は湫尾神社で、寛文3年(1663)には沼尾明神の記録がありました。
鹿島の沼尾社との関連がありましょうか?