1/10の朝、志賀高穴穂宮へ行ってから「穴太」駅まで徒歩数分。
京阪石山坂本線で京阪石山へ。
やはり伊吹山が近くに見えますね。
前々から伊吹山へ登りたいと願っていながら
実際に山頂まで行けたのは半年後でした。
今日は時間に限りがあるため、伊吹山南西麓から
北西部にかけての数社のみ訪れました。
先ずは岡神社。
ちょっと見たことのない構図ですね…。工事現場?
拝殿の左に大きめの磐境。ちょっと新しめな感じ?
本殿の横にある小さめの磐境は苔むしていますが?
モノは揃っているのに何となくしっくりきません。
この画像を撮影した一段高い場所にある祠が何なのかも
なぜここにあるのかもわかりません。
当社の創祀は、白雉元年(650)に移住してきた出雲國の人々が、
開墾地の灌漑工事を完成させた白雉3年5月に岡山に祠を築いた時とされています。
のちに再建されたことで古社らしからぬ雰囲気が漂っているのかも知れません。
さらに北上し、米原市伊吹の伊夫岐神社を目指しますと…
あれまあ?! こちらも空疎な感じ?
嘉祥3年、伊夫岐神従五位下を授く。
とありますが、伊吹山周辺には「イブキ」神社が多いので
断定することは難しいかもしれません。
現在は伊吹集落のみの氏神。
祭神については諸説あったが、明治初年より八岐大蛇神霊、
昭和18年に伊富岐神が祭神となった。
ということで、「イブキ」集落には「イブキ」姓が多いことがわかりました。
たくさんの奉納者がおられましたが、ほんの一部のみ。
伊吹・伊夫岐・伊冨岐・伊夫伎・伊富貴・膽吹・伊夫貴…
ざっと見ても、これだけの表記があるんですね。
発音が主役で、漢字は発音記号という古代の感覚に少し近づけました。
次は一路、北北西に進みます。
長浜市北ノ郷町の岡髙神社です。
岡神社と関係があるのかどうか…と訪ねてきましたが、
社殿の前には狛牛?! 社紋は梅鉢みたいなので天神社ですよね。
古くは岡髙天神だったりしたら当たりなのですが。
Wikipediaを見ると
雄略天皇3年(459)に蒲生稲置三麻麿が現社地の東方2kmの千丈尾岳に
素盞嗚尊を奉斎したのが最初で白鳳13年(685)に現在の御旅所に遷した。
仁寿元年(851)小野篁が現在地に社殿を造営し岡本神社と称した。
戦国時代、衆徒は織田信長の社寺焼打を避けるため、
父信秀が天満宮を崇拝するのを伝え聞いて
京都北野天満宮を勧請して岡髙天神と称して難を免れた。
とありました。
小ぢんまりとした(3/4模型のような?)社殿ですね。
砂防ダム建設のために鎮座地が遷った可能性はないのでしょうか?
社殿は、近づくと音楽が鳴るようになっていて、
音楽的には奇妙な演奏修行になってしまいました。
地元の氏神として大切にされている様子にほっこりしました。
鷹狩の際に参拝し、紋付の什物を寄進したため足利氏の二引両を神紋としたとか、
足利尊氏(1305-58)が奉納したと伝わる石造宝塔があるというので。
現在でも普通車が通れないような道の奥の奥、
行き止まりに鎮座する当社に、よくぞ将軍が訪れたものです…。
しかもこんなに小さな社殿!? もしかして尊氏の石造宝塔は右から2番目かな?
どちらの建物が大己貴神社かわからず、右往左往していたため
石造宝塔をちゃんと撮影していませんでした。残念です。
「古老の口伝によると武蔵國足利郡大宮より勧請したものといゝ」とある
足利郡は下野國でしょう。足利氏の本拠地は下野國足利郡でした。
大同2年(807)創建の大宮神社から勧請した可能性は低くないと思います。
ただし平成9年に大宮神社境内に設置された「由緒書」によれば、
オセロゲームのように白黒が変わる神社を語るのは難しいですね。
この日最後の波久奴神社(長浜市高畑町)もそうでした。
延喜式内社なのに創祀の年代がわからないといいます。
漆部小坂を伴従させて領地である当地の北野の邑の馬淵某に名を秘して潜伏した。
翌年の初午まで隠遁された。その後高畑の欅林の萩の茂る地に草庵を建て
萩生翁と称し里人に知識を授け善政を施した後この地で歿せられた。
民衆はその遺徳を偲びこの地に一祠を建て
正一位萩野大明神と崇めるに至ったと伝える」
と紹介しています。
ならば、なぜ明治になってから合祀したのでしょう?
当地に潜伏していたことを証明する新事実を出せたとは思えませんし。
江戸時代までは仮名(萩野大明神)でお祀りしていたけれど
そろそろ本名を出しても良いと判断したのでしょうか?
ですが、物部守屋クラスの大物となりますと、
義経→チンギスハーン説に匹敵する「おはなし」を期待してしまいます!