藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

人間(じんかん)万事塞翁が馬

言い古された故事ながら
人間万事塞翁が馬」を実感させられること屢々…。
今回の帰省に関してもそうでした。
前夜から何となく「明日は帰れないな…」と感じていました。
「なら、どんな事情で?」と自問自答してもわかりません。
ですから準備だけはしていました。
 
ところが、事もあろうに、エレベータを3Fに呼び、
2Fで降りたら、ドアが開いたまま全ての階のランプが点滅し、
けたたましいエラー音が響き渡ったのです。
すぐに電源を切り、緊急メンテナンスを依頼したものの、
既に停電が発生している地域もあり、夕方6時以降でないと無理…
との返事。それでは予定の飛行機に乗れません。
 
こう来たか…と、暢気に構えていましたが、現実問題としては
台風21号の影響による大雨で午前中からダイヤが乱れていたのです。
そんなことはつゆ知らず、予定の電車に乗ろうとしていたのですから
どうやっても予定の飛行機に乗れるはずなどありませんでした。
 
私としては、故障したエレベータを放置しては家を出られないと判断し、
JALに電話をかけて25日→26日に変更しただけでした。
元々、26日が全便満席だったので25日にしたのに皮肉ですね…。
しかし、4泊はいくらなんでも長すぎたようです。
昨日は私が居て助かったと言っていた家人が、
今朝はアーニャに「二人でじっと我慢してようね」って言ってましたけど
あてつけでしょうか?
女中としては、御二方の食事の支度はしてありますが?
 
ともかく26日の予定をこなせなくなった私は、移せるものは27日に移し、
ある方に電話をかけました。亡き父と同い年ですから今年87歳!?
催し物の最中に電話に出て下さり、「明日高松空港から帰るのですが」と
申し上げると、超お忙しいはずなのに「夕方なら空いてますよ」とのこと。
「迎えにゆきましょうか」と仰って下さったので「タクシーでゆきます!」
「では事務所でお待ちしてます」と、驚くほどスムーズにお約束できました。
 
なかなかお目にかかれる方ではない上、私も新幹線で帰る場合には
宇多津が四国の玄関口なので、高松へ足を運ぶことは滅多にありません。
結果的に、ちょうど良い時間帯の飛行機が空いていたということになります。
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16:45 高松空港着。讃岐平野らしい風景ですね。
 
このところ西讃、とくに高瀬川周辺を探訪しているのは、
前にも書きましたが《薦枕》という神楽歌の歌詞に端を発しています。
その《薦枕》で明治以降うたわれなくなった歌詞への疑問から。
 
以下は『日本書紀』第25代武烈天皇(在位498-506?)即位前記におさめられた歌謡です。
 
伊須能箇瀰  賦屢嗚須擬底  舉慕摩矩羅  柁箇播志須擬  慕能娑幡儞
於裒野該須擬  播屢比  箇須我嗚須擬  逗摩御暮屢  嗚佐裒嗚須擬  拕摩該儞播
伊比佐倍母理  拕摩暮比儞  瀰逗佐倍母理  儺岐曾裒遲喩倶謀  柯㝵比謎阿婆例
 
石上(イスノカミ) 布留(フル)を過ぎて 薦枕(コモマクラ) 高橋(タカハシ)過ぎ 物(モノ)(サハ)
大宅(オホヤケ)過ぎ 春日(ハルヒ春日(カスガ)を過ぎ 妻(ツマ)(ゴモ)
小佐保(ヲサホ)を過ぎ 玉笥(タマケ)には
(イヒ)さへ盛り 玉盌(タマモヒ)に 水(ミヅ)さへ盛り 泣き沾(ソホ)ち行くも 影媛あはれ
 
この歌は、武烈天皇物部麁鹿火大連の娘の影媛を娶ろうとしたら、すでに
真鳥大臣の息子 平群(しび)と関係していたため武烈天皇が鮪を殺害したとか、
応神天皇の時代から活躍していたとされる有力氏族の平群(武内宿禰の子孫)
武烈天皇の時代に誅殺したことを示唆しているなどと解釈されてきたようです。
また、歌詞を実際の地名と結びつけて、石上・布留に象徴される物部氏らを
片っ端から平らげていったと解釈する説もあるようです。
 ●石上=奈良県天理市石上
 ●布留=奈良県天理市布留
 ●高橋=奈良県奈良市杏町高橋
 ●大宅=奈良県奈良市白毫寺
 ●小佐保=奈良県奈良市佐保川
etc.
上記はワニ氏系氏族の本拠地でもあり、
その後裔氏族としては
古事記(712)
「春日臣。大宅臣。粟田臣。小野臣。柿本臣。壹比韋臣。大坂臣。阿那臣。多紀臣。
羽栗臣。知多臣。牟耶臣。都怒山臣。伊勢飯高君。壹師君。近淡海国造。」、
新撰姓氏録(815)
「大春日朝臣。小野朝臣。小野臣。和安部朝臣和邇宿禰。櫟井臣。和安部臣。
葉栗臣。葉栗。吉田連。丸部。丈部。栗田朝臣。山上朝臣。眞野臣。和迩部。
安那公。野中。大宅臣。大宅。村公。度守首。柿下朝臣。布留宿禰。久米臣。
井代臣。津門首。物部首。物部。壬生臣。葦占臣。網部物部。根連。櫛代造。」
とあります。
 
私が影媛記紀歌謡を心にとめていたのは《薦枕》が出てくるためです。
「薦枕」は「高」の枕詞と解説されています。
よって《薦枕》の神楽歌でも「高瀬」の枕詞と解釈するのが普通みたいです。
以前のブログから歌詞を再掲しますと、
薦枕や 高瀬の淀にや あひそ たか贄人ぞ しきつきのぼる 網下ろし さてさしのぼる
「薦枕」は、「高瀬」の「高」と次の「たか」にかかっていますか?
 
讃岐の高瀬川の河口に位置する詫間町から高瀬町にかけて走ってみたところ、
高瀬川周辺を大干潟と仮定すると、山沿いに数多くの「高津」神社が鎮座し、
大干潟西側の屏風の南端にあたる稲積山山頂に「高屋」神社がありました。
おまけに、稲積山のすぐ北のピークは「高野」山でした。
 
古来、海人族の本拠地とされた淡路島の多賀に伊奘諾神宮があり、
琵琶湖畔に多賀大社があることが引っかかるのと同じです。
 
そう、私は「薦枕」が「たか」の枕詞と解釈されるに至ったのは
古代より「薦枕」を御神体として奉じてきた集団の存在があり、
彼らが神の鎮まる場所を「たか」と称して崇敬してきたからではないか
との妄想から、ゆかりの地をまわって裏をとろうとしているのです。
 
現行の《薦枕》の歌詞が↓ここまで削り込まれた裏側に
「薦枕」を奉斎した氏族の存在を感じ取ってしまうのは私だけでしょうか?
 
たがにへびとぞ しぎつきのぼる あみおぎし
 
現行の歌詞には「薦枕」も「高瀬」も「淀」も、2番の「豊岡姫」も出てきません。
この刈り込み過ぎた盆栽みたいな歌を《薦枕》と称べるでしょうか…?
日本書紀』に掲載された歌が武烈天皇によって平群氏や物部氏が滅ぼされたことの
暗示だとしたら、敗者に纏わる「薦枕」の歌詞を、勝者がわざわざ歌うでしょうか?
 
《薦枕》の歌詞を無惨なまでに刈り込んだ背景にはどんな事情があったのか。
歌詞を割愛してまで歌い継ぐことにどんな意味があるのか。
 
思いがけず高松でお目にかかれた富山湾の甘エビをいただきつつ
ひたすら海人族の歌にまつわる話を続けた夜でした。
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実はこのとき偶然お話しした私が抱えている"難題"に対し、
87歳の大先輩から明快な解決法をご教示いただきました。
おそらくこの世で解決法をご存知だった方は数人のはず。
そもそもエレベータが止まらなければ87歳の大先輩に御連絡することもなく、
"難題"は生涯をかけても解決されなかったでしょう。
おかげさまで実り多い帰省となりました。感謝いたします。