伊福部昭氏は、国譲り以降の伊福部氏の動向に興味をもっておられました。
伊福部氏の歴史は古代因幡国から始まったわけではなく、あくまで
全国展開していた伊福部氏の拠点の一つに過ぎないとお考えでした。
そして古代の「伊福」地名を挙げ、最低でも以下へ足を運ぶよう言われました。
大和国宇陀郡伊福郷
尾張国海部郡伊福郷
美濃国池田郡伊福郷
それは、この六郷が『和名類聚抄』(931-8)に「伊福郷」と記録されていたためです。
古くは「五百城」「五百木」「廬城」の表記から「いほき」と発音されていたと
想像できますが、次第に「伊福=いふく」が主流になっていったようです。
その背景にはもちろん「好字二字令(諸国郡郷名著好字令)」がありました。
中国の2字地名に倣い、良い意味の漢字2字で表記するよう指示したのです。
「いぶり」の発音は「いぶき」に近く、伊吹山をはじめ伊吹・伊冨伎・伊夫岐などの
社名表記があるほか、息を吹く部の意から笛吹神社(葛木坐火雷神社)も見られます。
(南高来郡瑞穂町)にも「伊福」があって、かつては「伊布利村」と呼ばれていたそうです。

この木簡は、藤原宮跡北面中門地区で発掘されました。
また
「殷富門(いんぷもん)」とあった「伊福部門」(通称「西近衛門」)がありました。

伊福部氏の全国的広がりには幾つものルートがあったと伊福部先生は
考えておられました。伊福部氏の本拠地が因幡国だったとする説などは
移住して因幡国一ノ宮の神官となった伊福部氏の子孫と仰せでした。
初めてお目にかからせて頂いた当時、すでに68歳になっておられた伊福部先生は
「伊福部氏について、ずっと文献などにあたってきて、自分なりに幾つかのルートを
特定してみたけれど、実際に足を運んで確認する時間も体力もないため、同族に
近いあなたがまわって私の説を裏付けてくれると有りがたい」と言われました。
同族とは何か、自分のルーツに興味がなかった私は見当がつきませんでしたが、
『大日本地名辞書』に「伊福は尾張氏同祖の古姓にて、当国の名家たり」とあり、
氏族としての藍川が尾張氏同祖のグループに属していたと知ったのです。

あり、北東二里余りの位置には「美濃国池田郡伊福郷」がありました。
なお、池田郡・池田山(923.9m)周辺には雷公神社が現存しています。
伊福部先生は藝大の教官から私の名前を聞いた時点で指導すると決められ、
初対面の折、開口一番「藍川さんは美濃、今の岐阜ですね?」と仰いました。
思わぬ御縁で、私は二十代半ばにして藍川のルーツを知ると同時に、
国譲り以降の伊福部氏の移動ルートを辿ることを託されたのです。
それで、還暦をもって五線譜の歌を卒業し、倭琴を抱えて全国各地をまわって
古代歌謡の演奏修行および伊福部氏の足跡を確認しようと決めたわけです。
ここ数年、コロナ禍で停滞したものの、伊福部氏の主な拠点へは行けました。
それでも次々と「伊福」関連の場所が見つかります。
先述の雲仙へも行きたいのですが、泊まりの日程が容易に決められないため、
これまでの「火吹く」部、「息吹く」部、蛇をトーテムとする大己貴命に加え、
今日は、雷神としての伊福部氏について考えてみたいと思います。
「昔、兄と妹が田植えをして、遅く植えたほうが伊福部神の災を被るべしといったが、
妹が遅れ、雷鳴がして妹は蹴殺された。兄は嘆き恨んで仇を討とうとし、
一羽の雌雉子が飛んできて肩の上に止まったのに麻糸をつけた。
雉子は伊福部岳(いふくべのをか)に上り、後をつけると神雷の臥す石屋に至った。
斬ろうとすると、神雷は恐れて、100年後まで子孫に「雷震」の怖れなかろう
といって助けを乞うたので許した。また雉子に感謝して、代々その徳を
忘れず、違犯したら病になって生涯不幸になると誓ったので、
その地の百姓は今日まで雉子を食べない」との話があります。

10年近く前、その場所を特定しようと、地図をチェックしました。
伊福部岳(いふくべのをか)という表現から、↑画像の「いぶき山イブキ樹叢」かなと
思いましたが、周辺は開発済みで、「伊福」関連の神社も見あたりませんでした。

それで、別の雷神を見つけて足を運んだのです。
↓のブログで最初に行った「夷針」を、谷川健一氏は「いばり」と訓み、
「いばり」は尾張国伊冨利部神社の「いぶり」に由来するとし、
「伊冨利(いふり)」や「廬入(いほり)」は「伊福」と同語とされていました。
風神山は、美術では一対として造形される「風神・雷神」でした。
ブリタニカ国際大百科事典には、「雷神(らいじん)はイカヅチノカミともいう。
雷霊を司る神。蛇形をした小童であると考えられていた」とあり、
風・雷・蛇=伊吹・伊福で伊福部氏関連であることが疑われます。
関東における雷神といえば、金村別雷(かなむらわけいかづち)神社が有名です。

つくば市上郷(かみごう)の小貝川畔の舌状台地に鎮座する金村別雷神社は、
上郷地区は、約3万年前の旧石器時代から人々の生活の場でした。931年(承平元年)、
桓武平氏の一族たる豊田公が上賀茂の別雷神社から分霊を奉斎した金村別雷神社と、
金村別雷神社のある雷神を結ぶ橋が「福雷橋」だったので足を運んでみました。
市町村合併などで地名が変わり、古い字(あざ)名が失われてしまった今日、
民族移動の痕跡やヒントを得ることが難しくなっただけに地名に執着してます。

福二(ふくじ)の手前で早速、難読地名!? 上蛇町(じょうじゃまち)だそうです。
このまま北上して「福雷橋」を目指します。

吉野ですって? 伊福部氏と吉野も関連があるんですよね。
手前に臨時駐車場があったので入ってみました。

あ、いや、これはいけません。タイヤが草花を踏んづけてしまいます。
釣り場を覗いてみたかったのですが、そそくさと退散。

ほどなく金村別雷神社への案内板がありました。

「堤防を越え」とあったので堤防まで来ましたが、ここからは左手に下るようですね。

鋭角にV字を曲がると「福雷橋」が見えました!!

小貝川を渡って左折すると、すぐに先ほど見えた鳥居がありました。

参道の木々が大きくてビックリしました。

古社だとは思いますが、小貝川が付け替えられているので地形を確認してみます。

ニノ鳥居の前を突っ切って東へ向かいます。

こちらも堤防っぽいですよね? 画像の右端から上がってきました。
結局のところ、「常陸谷原」「相馬谷原」とよばれていた谷原に
一斉に新田(しんでん)ができたのは、低湿地を干拓して多くの村落を
成立させるという幕府主導型新田開発の成果で、現在も
「○○新田」という地名やこうした地形がそこここに見られます。

社殿の方へ引き返していると、このような野原が道の両側に見られます。
おそらく金村別雷神社は河川流域の微高地を利用して建てられ、
千年以上ものあいだ歴史を紡いできたのでしょう。

回廊もあって立派な造りですね…。若いカップル(?!)がお詣りしてましたが
帰られたようなので倭琴を出して調絃しました。

これは、↑いわゆる龍と呼ばれるものでしょうか?
賀茂別雷命とは、何者なのでしょう?

よく風の通る爽やかな空間にウグイスの声が響き渡っています。
誰もいなかったので《篠波》と《阿知女》を弾き歌いさせて頂きました。

渡ってきた「福雷橋」を右手に見て左折し帰途に就きました。
実は今日、思いがけず、伊奈忠治を祀った伊奈神社を見つけたんです。


この左手が藤棚でしたが、いくら藤の花が好きでも人工的なものはどうも…

ただ小貝川左岸を北上したかっただけなんです。
お天気が悪いのは、暑い日を避け、終日曇りで雷注意報が出ていた今日を選んだため。

この右手に伊奈神社があったんです。そして振り向くと福岡堰。

想像以上のスケール感でした。
ここは伊奈忠治(1592-1653)が最初に築いた堰として知られています。
1722年(享保7年)に改設されて福岡堰と呼ばれるようになりました。
常総地方における伊奈忠治の仕事は、谷原の本格的な開発で、
1625年には常陸台地の小張(おばり)に陣屋を構え、1629年に鬼怒川と小貝川を
直接流入させることで小貝川の水量を減少させました。
伊奈忠治は元和期(1615-24)に河川流域で開発に携わる人材を広く募集し、
幕府主導型で大河川や中小河川の大規模な付け替えや改修工事を行なって
干拓した低湿地へ用排水堀を開鑿し、多くの新田村落を成立させたのです。
7年前に旧 伊奈町を5回ほどまわり、伊奈忠治の存在が気になっていました。
このとき訪れた遺跡の多い小張(おばり)を通りかかり、尾張地名? と感じました。

山を切り開いて造られた道に藤の花が自生していて目を奪われました。

今年は大好きな藤の花を間近に見られただけでも良い年と言えますね!!

いつもながら、演奏後は太陽が出たので日焼けしないよう一目散に帰宅しました。