藍川由美「倭琴の旅」

やまとうたのふるさとをもとめて倭琴と旅をしています

西郷さんとニニギノミコト

帰途を宮崎空港にしたのは、恐らく来年2月まで泊まりがけでの
倭琴の旅を休止しなくてはならないため、どうしても明治10年
西郷軍の可愛岳突破ルートを辿りたかったのです。
朝 8:50、北浦の宿を出て、延岡市北川町長井の
ニニギノミコト御陵墓参考地」へ向かいました。
もちろん「ニニギノミコト」が実在したとも、御陵があったとも思っていません。
が、すでに可愛山陵(えのさんりょう)伝承地たる鹿児島県薩摩川内市へも
宮崎県西都原古墳群の男狭穂塚へも行ってます。
この陵墓参考地は西南戦争の最後の激戦地「和田越」の西郷隆盛陣屋跡に建てられた
西郷隆盛宿陣跡資料館」のすぐ上にあります。この陣屋で、西郷隆盛薩軍
解散命令を出し、軍服を焼いたと伝わります。
上の写真を撮った位置から下方を写しました。右の家屋が資料館です。
わざわざ日豊本線をここに通したわけですか?
資料館を正面に見て左手に小高い場所がありました。
「明治十年激戰地」の碑が建っています。
西郷軍がこの地に陣屋を置いたのは、
ニニギノミコトの陵墓だから、よもや皇室の先祖の墓へ向けて攻撃は出来まい
との計算があったからと言われていますが、官軍はさほど甘くありませんでした。
官軍5万余に包囲され戦った約3,500の薩軍は、当地での敗戦ののち
可愛岳を越えて敗走し、戦闘の舞台は薩軍終焉の地・城山へと移ります。
明治10年8月15日、「和田越」の戦いに敗れた西郷軍に対し、
西郷隆盛は16日に解散令を出し、17日の軍議において、
16時に「全軍まず進んで三田井に出、然る後その方向を決するも晩からず」と
決意表明したのち、22時に可愛岳突囲戦の隊編成を発表したそうです。
総勢600名ほどの西郷軍は18日午前4時半に英式ラッパ一声総攻撃を開始。
ふいをつかれた官軍は総崩れとなって、西郷軍は可愛岳突破に成功したとか。
和久塚地蔵谷で一夜、上祝子でもう一夜を明かし、鹿児島への敗走の途につきました。
 
可愛岳と聞いて真っ先に思い浮かべたのは延岡市大峡町の竹谷(たけだに)神社でした。
実は竹谷神社の創建は1771年と新しく、近くの「ニニギノミコト御陵墓参考地」と
関連づけたい狙いから、「タカヤ」と名づけたのではないかと疑っています。
のちに名称の訓み方が変化してしまう例は幾つもありますし、
「竹」の発音は、第9代開化天皇の妃となった「竹野媛」が晩年
帰郷して建てたとされる京丹後の竹野神社が「タカノ」、
南さつま市竹屋神社(もと鷹屋大明神)の訓み方も「タカヤ」でした。
竹屋神社は「笠狭宮跡」と刻まれた石碑が立つ公園に隣接しています。
「笠狭=笠沙」は高千穂に降臨した天孫ニニギノミコトの居所跡とされており、
ニニギノミコトとタカヤはセットとして用いられたのではないかと妄想しています。
北川村に古くから「可愛山陵」があるとの伝承があり、
1771年に竹谷神社が創建され、
1874年に明治政府が「可愛山陵」の場所を特定、
1895年に「御陵墓伝説地」として治定されたということですね。
 
なお、鹿児島空港に近い鷹屋神社の場合は、主役が違います。
ニニギノミコトの御子ヒコホホデミノミコトを「高屋の山に葬るとある」との
日本書紀』の記述から、「高屋山上陵」がつくられ、その地に鎮座していた当社が
神威を憚って1411年に霧島市溝辺町麓4260に移転して鷹屋神社になったらしい…。
親子の違いはさておき、御陵と神社をセットにする習慣があったのかもしれません。
 
可愛岳へ登るのに、古代からのルートを辿ったとは限りませんが、
可愛岳へのルートと言われれば、代々の延岡藩主が毎月のように
通ったと伝わる、竹谷神社への一本道しか思い浮かびません。
ただ離合不能の道ゆえ、今回は諦めるべきか…と迷っていたところ、
宿泊した北浦という集落にはタクシー会社が無く、
ホテルにタクシーを頼んだら延岡から30分以上かけて来て下さった
とわかり、延岡の運転手さんなら地元だから大丈夫と踏みました。
先月レスキューを呼んだ本宮山の林道より狭く、かなりの酷道でした。
が、運転手さんの腕が違うため、非常にスムーズに往復できました。
可愛岳を登っているため山頂が見えづらく、実際には画像右端に位置しています。
おおお…、竹谷神社まで来たら可愛岳山頂が見えました!
しかし! 建物がなくなっていて衝撃を受けました。
↓ 1年前に撮られた画像を見て行ったので。
実は、2年前のクラウドファンディングを偶然目にしていました。
2019年9月に宮崎県延岡市を襲った竜巻により被害を受けた竹谷神社本殿は
2年半経っても再建の目処が立たず、本殿倒壊の可能性が出てきたため、
有志が2022年8月1日に300万円を目標に募集を開始。
68人の支援を得て、796,500円の資金が集まったそうです。

<実施スケジュール>

令和4年3月 竹谷神社建設委員会発足

6月 地域の崇敬者へ支援を募る活動を開始

8月上旬 クラウドファンディング開始

9月下旬 クラウドファンディング終了 

11月上旬 リターン発送作業開始

令和5年3月上旬 竹谷神社本殿再建工事開始予定

8月下旬 竹谷神社本殿完成予定

 
残念ながら、令和6年7月下旬現在、社殿は存在していません。
ただ、更地になったので再建準備が始まったと見ることもできます。
 
それにしても、延岡藩主はなぜ毎月のように竹谷神社まで登ったのでしょう?
「可愛山陵」と竹谷神社との関連づけと、大峡谷(おおかいたに)川の源流ゆえでしょうか。
治世において、治水が重要であることには、説明の必要がありません。
そして西郷軍も川沿いに水を補給しつつ可愛岳を越えたのかもしれません。
社殿が再建されたら、もう一度訪れたいと感じました。
 
延岡市には古墳が点在していて、それぞれに神社があることから
何ヶ所か回ろうと計画していましたが、電車が遅れたりしたら困るので
1時間半早い特急に乗ろうと決め、最後に日本一の弘法大師像が山頂に
聳え立つという今山大師に行ってみることにしました。
なにしろ運転手さんが凄くお詳しくて、秒で(実際には、分で!!)
山頂の弘法大師像の横につけて下さいました。
偶像が苦手な私なのに、なぜ当地に像が建立されたのかを知りたくなりました。
それにしても…このスケール感は想像を超えていました。
木が繁っていて視界が…!?
できれば、この位置から見てみたいものですね。
上がって見るのは無理とはいえ、延岡にこのような場所があったことを知り、
道を熟知されている運転手さんのお蔭で数分で駅に着けただけでもラッキーでした。
いちおう撮っておきましたが、文字が小さ過ぎますね。
だいたいこういうことらしいです。
1839年(天保10年)延岡の地では疫病が猛威を振るっていました。
城下の「お大師さん」信徒の代表者が高野山の金剛峰寺に詣でて
弘法大師座像(現在の本尊)を授与され、大師庵を建てたのが今山大師の始まり。
 
そして、敗戦後まもなく、今山大師の住職が戦没者の慰霊と
戦後復興を願い、大師像の建立を発案されたのだそうです。
今山大師てっぺんの高さ17mの弘法大師像は日本一と謳われていますが、
実際には昭和13年春に開眼した愛知県蒲郡市三谷町南山の心願子安大師像が
弘法大師が62歳で亡くなったことにちなむ62尺(背丈 18.7m)で日本一。
高さ18.7m+台座7mというのは大師像としては東洋一の大きさなのだとか。
 
最終日は番外編のようになってしまいましたが、
今回は年内最後の旅として好奇心の赴くまま歩き、楽しかったです。
早く声楽家としての仕事を終えて、旅人に復帰したいと思います。
日帰り旅は出来るかもしれません。